本当に断捨離しなきゃいけないのは

日常にこびり付いた「行為」そのものじゃないだろうか。

モノへの執着にフォーカスして語られることの多い断捨離という考え方。じゃあ、物を手に入れる欲求はどこから来るんだろうか。朝活をやってて感じるのは、物欲よりも深刻なのは実は「行為」なんじゃないかな。

スマホを何時間もいじる行為
二度寝をする行為
大盛りを頼んでしまう行為
夜更かしをする行為
ついつい飲み過ぎる行為
いつも新しいものに飛びつく行為

私はテレビをかなり前に捨てました。これってモノへの執着じゃないんですよね。あれはモノというよりはコンテンツを吐き出す装置なんです。そのコンテンツを視聴する「行為」を捨てたということになる。また、食事の量を一日三食から二食に減らしています。これも食べる「行為」の一部を捨てた事なると思う。食事の断捨離についてはまた別の機会に改めますが。。。

大人が新しい「行為」を始めようと思ったら、他の「行為」を捨てないといけない。もちろん、朝活も然り。

シンプルな生活

シンプルな生活っていうのはモノが少ないことじゃないと思う。「行為」がスリムな人。そういう点では、自分もあれこれ手を出してしまうので、シンプルな生活を送れているとは言い難い。だから「行為」を思い切って断捨離していかないと、なかなか好きなことが出来ない。

その人が本当にシンプルな人かどうかを知りたければ、持っている物の数じゃなくて一週間の過ごし方を聞けばよくわかる。

断捨離の先にあるもの

こうやって大きい「行為」をドカっと捨てていくと、見えてくるものがある。このブログでも何度か言っているかもしれないけれど、それは「諦念(ていねん)」。そう、何かを諦めるということ。

逆説的で申し訳ないんだけど、やっぱり人にはそれぞれ限界がある。「行為」をどれだけ断捨離しても、一日で確保できる時間はせいぜい2~3時間。たっぷりあるように見えるけど、実感としては大した時間じゃない。

さらに困るのが、一日に進める距離、一ヶ月に進める距離、一年で進める距離っていうのが、本当にくっきりと残酷なほど眩しく見えるようになる。自分が無能に思えてくる瞬間。そんな感じで悶々としていると、断捨離の先に諦念と名乗るお化けが立っているのがうっすら見えてくる。三途の川を向こうへ渡るような、すごく奇妙な体験。

自己啓発本は諦念を言わない

今までも売れていたし、これからも売れ続けるであろう自己啓発本を僕が嫌っている理由にこれがある。自己啓発本は「諦念」を言わない。何者にでもなれるような、暴力的な言葉が並ぶ。特に残り時間がたっぷりあると錯覚する若者がこういった言葉に心酔しやすい。

大人が子供よりも少し無気力に見えるのは、社会に出て受動的に「諦念」を味わってきているから。でもこの「諦念」を受動的にじゃなくて、能動的に味わおうとする試みに「期待していい何か」が潜んでいるような気がする。「待つ行為」を積極的に知る日本人だからこそ、出来るアプローチもあると思うんです。

ちなみに、この「諦念」には道理をさとる心という意味もあるとか。