さて、このシリーズも第2弾に入りました(フチ子の服の色が違います)が、この中では個人の抱えるストレスという視点から脱却して、働く事の本質に少しでも迫っていけたらいいなと思ってます。
しばらくこのシリーズに間が空いていたのは、「労働とは何か?」という視点で書かれた本で妥当と思われるものがとても少なかったからです。これにはびっくりしました。逆に過剰だな感じた本の種類はこうすればビジネスで成功する!とかストレスと上手く付き合う方法だったり、仕事を上手く進めるためのコツだったりと、仕事を選択した後の話ばかりの書籍が多かったためです。
今の私たち労働者が求めているものって、そもそも労働って何だろうってことなんじゃないかと思っています。そういうフェーズに私たちは立っているんじゃないかと。
今回は「アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか」という本で学ばせてもらいました。このシリーズにぴったりの題名ですね。
アダム・スミスに対する誤解
神の見えざる手を旗印に経済学の父と称されるアダム・スミスが実は道徳哲学者であったことを著者は熱心に説きます。アダム・スミスを有名にした『国富論』の17年前に出版された『道徳情操論』を基礎として話は進んでいきます。当時の英国における時代背景と現代の違いをちゃんと比較しながら話を進めていきますので、その辺はちゃんと書かれてあるなと思いました。とても読み易いです。
アダム・スミス
アダム・スミス(Adam Smith、1723年6月5日(洗礼日) – 1790年7月17日)は、スコットランド生まれのイギリス(グレートブリテン王国)の経済学者・神学者・哲学者である。主著は『国富論』(または『諸国民の富』とも。原題『諸国民の富の性質と原因の研究』An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)。「経済学の父」と呼ばれる[1]。
2007年よりイングランド銀行が発行する20ポンド紙幣に肖像が使用されている。過去にはスコットランドでの紙幣発行権を持つ銀行の一つ、クライズデール銀行が発行する50ポンド紙幣にも肖像が使用されていた。
『道徳情操論』によれば、人間は他者の視線を意識し、他者に「同感(sympathy)」を感じたり、他者から「同感」を得られるように行動する。この「同感」という感情を基にし、人は具体的な誰かの視線ではなく、「公平な観察者(impartial spectator)」の視線を意識するようになる。
「公平な観察者」の視線から見て問題がないよう人々は行動し、他者の行動の適宜性を判断することにより、社会がある種の秩序としてまとまっていることが述べられる。このように社会は「同感」を基にして成り立っているため、社会は「慈善(beneficence)」をはじめとした相互の愛情がなくとも成り立ちうると論じた。
また、富裕な人々は、大地が全住民に平等に分配されていた場合とほぼ同一の生活必需品の分配を、「見えざる手」に導かれて行なうということも述べている。
Wikipedia引用
簡単に人を叩く存在の増加
一時的な感情を人を叩く人が増えてきました。ネットで他者を攻撃するのは容易いことですが、やはり軽薄な行為でしょう。著者は2014年のW杯の日本代表の予選リーグ敗退を引き合いにこの話をしています。
ものごとを正しい基準で判断できなければ、自分自身の行いを正しい基準で判断できないということであり、それはそのまま本人の「生きづらさ」に繋がってくると著者は言います。
この正しい基準、つまり”軸”を持つ事が今の現代人の急務の課題であり、そのヒントがアダム・スミスの著した『道徳情操論』にあるというのです。アダム・スミスは衣食住の最低限の豊かささえあれば、後はどれだけあっても幸福感は本質的には一定だと考えていたそうです。
自分が「最高の生活」として
憧れるような環境になったとする。
そこで感じる幸せがある。
でもその幸せは、いま自分が体験している
「つつましい生活」で感じる幸せと、ほぼ変わらない。
『道徳情操論』(米林富男訳、未来社) P324より著者の意訳
※限界効用逓減の法則でも言われています。
リアルに人と繋がらなくなった結果
著者の考え方は非常にシンプルで明確です。多くの人はネットに繋がるようになりましたが、その分リアルに誰かと繋がる時間が減っています。SNSを通して人と繋がれるという意見もありそうですが、これも実はかなり遠回りなコミュニケーション方法だったりするんです。Facebookなんか格好の例です。
ネットを通して、個人のアイデンティティは輝きを増しますが、社会の一員としての自覚がどんどん希薄になるのではないかと警鐘を鳴らしています。社会の一員になれないということは、社会の判断基準の更新が自分の中でされなくなるということです。これが社会から疎外されているという感覚に繋がっているのではないかと書いてあります。
私たちは個人の判断基準と共に、社会の判断基準の2つを持っていなければいけません。さらに言えば個人の判断基準は自分の良心に照らされたものでなければいけません。この本の結びに、経済発展の意義と失業を減らす事の重要性が語られています。木暮太一さんありがとうございました。
『道徳情操論』は読んでおくべき一冊ですね。
感想文追記
最初の感想文を書いた後で、何度頭の中で反芻してもしっくりこない部分があったので感想を追記します。この本の内容を一言で言ってしまえば、こういう内容。「アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか」ではなく、「アダム・スミスは悪くない」になります。
ここからは、しがないサラリーマンである管理人の実直な感想を述べようと思います。人の本質は変わらない、だからアダムスミスの書いた『道徳情操論』は現代人にも通じるところがある。うん、そうなんだけどそれはかなりの極論。著者もそのことがわかっているから、アダム・スミスがいた時代と現代という時代の違いが何度も出てくる。時代背景が違うのであれば、閉塞感の出所も違うはず。そんなに時代の様相が違うのに現代人に通じるものなんて多いのかな?
まず、人間の本質について。実際、これは国によって随分違うんだ。完全に共通してるのは、睡眠、食欲、性欲とか生存に近いところ。だけど、これが普遍的な人間の本質なんて誰も思わない。自分は人間の本質は時代の本質とイコールじゃないかなと思ってる。もちろん、国民性という屋台骨の上に時代の空気をまとって生活している。だから、アダムスミスの話はあんまり役に立たない。だって時代背景があまりにも違い過ぎるから。
本の結びに、普遍的な人間の本質が書かれている『道徳情操論』を振り返りながら、この時代を受け入れて考え方をシフトしようという話で終わってる。だけど、それだけだとお坊さんの説法と何ら変わらない。本を読んだって現状が変わらないことは百も承知なんだ。ぼくたちが求めているのは、アダム・スミスの考え方を汲んだ著者の視点から、時代がこれからどう変わって行くかの意見が欲しかった。そういう見通しを作るのが経済学者の役目なんじゃないかなぁと勝手に考えています。じゃあ、君の見通しはなんだ!と問われれば、数字に特に弱い自分は次のように感じています。
これから仕事というものがますます人の手から離れていく。分業化は進むけど、多くは自動化されていきます。経済の究極目標は1人の資本家に全て収まることだと思ってます。1人で工場を動かし、1人で食べ物を生産し、1人で介護施設を運営する。経済とテクノロジーはその一点を目指して突き進んでいるように思えます。バカな話だと思う人も多いかもしれません。でも、現に今だって1人でWebサービスを立ち上げられるし、動画を通じて1人の教師が何万人に教えられることが可能になっています。
テクノロジーが私たちに寄与するのは、究極の個性の発揮だと感じています。アイデアがいい意味でも悪い意味でも即座に現実になる時代がもうすぐそこまで来ているような気がしてなりません。進歩の速度が上がると同時に危険も増大していくでしょう。世界各地の食品工場で起きている毒物混入事件なども本当に象徴的。こういう時代が進むと、半強制的に生まれた余暇を埋めるためにスマートフォンのようなゴーストが今一番のニュースとして話題になるんです。食べ物でも服でも住まいでもない、生存とは関係のない製品が一番の話題を集めるのが、現代という時代精神じゃないかと。
これからの時代は、貧しい余暇が訪れると思ってます。この貧しい余暇の正体が何なのか一度考えてみるのもいいかもしれません。これが次の時代への活路を見出すキーワードだと私は思っています。