芥川龍之介の短編小説 蜘蛛の糸。
地獄に堕ちた罪人のカンダタが生前蜘蛛を一匹助けたことから、お釈迦様が蜘蛛の糸を天上から垂らしてこの罪人を救ってあげようというお話。
小さい頃、この話は本当に苦手でした。身も蓋もない結末といえばそれまでで、結局主人公のカンダタは改心もしないし救われることはありません。ただ、天上へと続く蜘蛛の糸がぷっつり切れて地獄に戻るのだから。NHKの人形劇か何かで見た時は、本当にトラウマになるくらいこの話が怖かったです。
ただ、原作を読むと随分印象が変わってきます。
このお釈迦様も本気で助けてやろうとは思っていない。だって、冒頭の登場シーンがこんな描写。
極楽の蓮池はすいけのふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。
ぶらぶらって。。。お釈迦様ってぶらぶら歩くんですか?何と言うか、空のハンドバックをくるくるさせながら歩いて来る若い女の子みたいな表現といったら言い過ぎでしょうか。
ただ、この表現こそが、物語の重要な鍵を担っていると個人的には思っています。今後、紙芝居だったり人形劇だったり、アニメにするときは、このぶらぶらという描写を絶対に入れてほしい。何故なら、私が思うにこの物語に出てくるお釈迦様は積んできた自分の徳にほろ酔いしています。つまり、軽い酩酊状態ではないかと思うのです。だから、ぶらぶら歩く、ちょいと気まぐれに蜘蛛の糸を垂らしてみる。そういう、色気のようなものをこのお釈迦様から感じてきます。
で、自分だけ助かろうとするカンダタが縋っている糸が切れると彼が地獄へ堕ちていくのを見届けると、また”ぶらぶら”という描写が出てきます。お釈迦様がぶらぶら来て、糸を垂らして、またぶらぶら去っていく。行きも帰りもぶらぶら。本当に悲しかったらお釈迦さまだって歩き方変わるでしょう? でもやっぱりぶらぶらで一切皆苦の諦念とでもいいましょうか。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」にも一本の葱という小話があって、この蜘蛛の糸と同様の構成になっている。けれども、芥川龍之介のすごいところは、この「ぶらぶら」を入れて来るところ。一本の葱の話にこんなブラックユーモアはない。これは、徹底した諦観であり、見事なお釈迦様の描写だと思う。彼が他の罪人を蹴落とした瞬間に糸が切れたのは、あの糸の強度がカンダタの生前の善行で依っていたから。
あの蜘蛛の糸は、主人公自身の行いの結晶だ。因果応報の話。蜘蛛の糸の強度は、彼の善なる徳に依存している。それがやっぱり彼を引き上げるほど強くなかったということになる。お釈迦様は別に彼の改心を願ったわけじゃなかった。ただ、彼の生前の善行をカタチにして見せてやっただけ。
そう考えると、さっぱりした気持ちのいいお話だと思う。