こころとからだの平和

こころとからだの平和

フォローさせていただいている方のブログ “Simple Life Journal”から面白いお題が出ているようなので、僭越ながら私も私自身の立ち位置を今一度確認しようと思うので、投稿させてもらいます。

テーマは「こころとからだの平和」
まずはこころとからだを考えてみます。

こころは漂う鍵穴

こころと聞いてイメージするのはベール。体全体を覆う繊細な糸で織られたベールのようなものをイメージします。表面には無数の鍵穴が空いています。ジョジョが好きな人にはイメージしやすいかもしれません。こころのベールは中にあるというよりは外にあるイメージ。体に巻いた薄い布切れ。もう一枚の皮膚。フワフワと中空を漂っているイメージです。オカルト好きな人は「オーラのことだ!」と言い出す人も出てきそうですが、そういうことではありません。

漂うという感覚です。もしかすると、この漂う感覚というのは頭蓋の中にある液体で満たされた脳室の中に浮く脳が感じる浮力のことかもしれません。漂う浮力そしてそのベールの表面に見える無数の鍵穴、それが私がイメージする『こころ』です。




からだは行為のキー(鍵)

からだは代々受け継がれたアンティーク品。ポンコツだけど最新型。ストラディバリウスのバイオリンみたいなやつ。基本的な型はみんな同じイメージ。役割としては、『からだ』は行為のキーでありそれ以上でもそれ以下でもありません。

両目が無くなれば、見るという行為は出来なくなります。両手が無くなれば、掴む行為が出来なくなります。脳に直接イメージを送ったり、機械式の義手も近い将来人類が手にするでしょうが、それは別の行為のキーだと私は考えています。

行為のキーと心の鍵穴の数は同じではありません。行為のキーは暖めると柔らかくなる粘土みたいに鍵穴に形が変わるイメージです。冷たくすると硬化するイメージです。それで開く扉もあれば開かない扉もあります。

行為のキーというのが私のイメージする『からだ』です。




わたしの想う『こころとからだの平和』

こころが漂う鍵穴で、からだが行為のキーであるならば、こころとからだの『平和』とは何かということになります。

そもそも平和という言葉は、個人に向けて使う機会はほとんどありません。国家や戦争で出てくる言葉です。この言葉を個人に向けて使うとどういうことが起こってくるのか?

平和という状態は一人の人間の中では起こりえないような気がしています。平和というのは究極の理想状態です。これを凡夫が達成するのは困難です。これを遠い未来に実現するために、生まれ変わりという考え方が宗教の中で生まれたのかもしれません。穏やかな死に顔くらいしか思いつきません。それくらい困難なような気がします。

人間というのは、二つの極みを行ったり来たりしているような気がします。『世俗』と『精神世界』です。どちらに偏りすぎても平和から程遠いところに誘導されてしまいます。

ちょうど真ん中とはどこでしょうか? からだにある行為のキーで扉を開けて真ん中の部屋を探さなければいけません。私たちが時間軸の中で生きている以上、真ん中の部屋は移動し続けます。過ぎ去る瞬間瞬間に行為を通して真ん中の部屋を探す旅を続けること、これが『こころとからだの平和』かもしれません。

また、あなたの行為のキーで開く鍵穴はあなた以外の人が持っているかもしれませんね。