「優しさ」や「正しさ」というのは、いつもポジティブな響きを持って語られます。
けれども、普遍的な優しさや正しさというのを見出すというのはなかなか難しいところ。
「優しさ」はなんだか雲のようだし、「正しさ」というのはなんだか刃物のように感じるのです。
無条件にそれらを受け入れ続けると、やっぱり傷つくことだってあるのです。
このネガティブな現象は、組織の中にいる人間によく見られます。
優しい人のズルさ
私は優しさと聞くと、ぬるぬるしたいやらしさを感じます。
優しい人と呼ばれる多くの人は、自分に甘く、他者にも甘いのです。
私もどちらかというと、ズルい側の人間かもしれません。
他者に対して精一杯気を利かせ、感情に働きかけます。
常に物事が円滑に進むように配慮しています。
そういう気の遣い方が、相手のことを本当に想っているかと訊かれれば、そうでもないのです。
人の人生には厳然たる優先順位があります。物事を成し遂げるために、優しさを発揮するのです。
では、本当の優しさというのはなんでしょうか。
価値観が刻々と変化する人生には、本当の優しさが存在する可能性があるのか疑いたくなります。
ある時点では、それは本当の優しさだったかもしれません。
でも、その判定が永続する可能性は100%ではありません。
恋愛における好みのタイプで優しい人と答える人は、夢を見させてくれるズルい人、つまり詐欺師のような人を探しているという意味なのかもしれません。
雲のような、ぬめりのような、そんなものを持つ異性をあなたは求めていませんか?
私とは全く関係ない人に美しい精度で優しさが発揮できれば幸いです。
正しい人の凶暴さ
正しい人というのは、常に迫ってくるイメージです。
正しい人というのは、自分にも相手にも厳しい人が多いような気がします。
正しければ正しいほど凶暴です。
例を挙げると、ネット社会では「正しいことが善」とされ、凄まじい攻撃性を発揮しています。
匿名の世界ですから、自分が仮に清廉潔白な聖人でなくても、聖人のフリをして他者を攻撃出来るのです。
偽善と言う言葉がしっくりきますね。
正しいことが完全な善だと考える人は、たくさんいます。
そして、人を傷つけます。
正しいことを否定はしませんが、正しさを追求することは、刃物を研磨する作業に等しいのです。
歴史を少しでも学んでみるなら、正しさという名の下に、数多くの犯罪があった事を知るでしょう。
現代史を紐解けば、人の考えなんていうものはこんなに簡単にうつろうものなのかと驚いてしまいます。
だから、正しいということを過信してはいけません。
正しいということを自分の宗教にしてはいけないような気がするのです。
ここまで言い切ってしまうと、極論を盾にした質問が飛んできそうですが、私は犯罪行為を認めているわけではありません。
多くの犯罪は罪を犯罪者自身の肥大化した利己主義から行われます。
彼ら自身の身勝手な正義が犯罪を引き起こしているとも考えられないでしょうか。
犯罪者の論理というのは、どこまでも利己的で自己完結しています。
常に正しいというものも、存在しません。
正しいことを完全否定しようとは思いませんが、人間らしい感情が干からびないように注意を払う必要もまたあるのではないかと思ったりするのです。
ポジティブな言葉を表面を剥がして、その裏地を覗いてみることが、バランス感覚を保つ1つの方法ではないのかなとふと思った次第です。