般若心経を唱えてみようと思い立ち、1週間が過ぎました。
仏教へ気持ちが向きはじめたのは、池上彰さんの本がきっかけです。さらに中村元先生の原始仏教について調べたりと、私の中では仏教への関心が高まりつつあります。
30代半ばにもなってくると、自分の人生の少しだけ先が見えてくるようになります。要は自分のスペックが大体わかってくる感じ。んでもって、そのスペックを使いこなしながら、生涯年収はこんなもんか、ローンはいつ完済なんだろう、血糖値には気をつけなきゃとか、今の会社だと昇進してもここまでかなぁとかね。
こんな他愛もないことをふと思ったときに、あぁ全部自分のために生きている。自分が食べるパンのためだけに生きいるんだなぁという気持ちがこみ上げてきました。これは僕の感想。
もちろん、今やっている仕事にプライドを持っているし、自分がやってみたかった夢に近いものだからそれはそれでいいんだけど、働かなくても食べていけるようになったら、仕事は真っ先にやめるかな。みんなもそうでしょ?好きなことだけをして生きていくなんて最高の人生。
知っている人が旅立っていく
んでもって、今度は暗い話なんだけど、30代半ばになると、友人や親戚、恩師が事故や病気で亡くなったといった話を聞くようになる。
昔は両親の人間関係の先にある人たちが亡くなっていくというイメージだったんだけど、30代半ばだと、僕と直接人間関係のあった人がこの世を去っていきます。死が身近になってくるものこの年代になってから。
ふと振り返った時に、今まで自分のために一生懸命生きてきたけれど、お世話になった人たちには何もしてこなかったし、しようとも思いませんでした。
そこで新しく思いついたのが、自分の知っている人たちだけに向けて毎晩読経しようと。死者に感謝の気持ちを伝えるのはどうしたらいいのかと調べまくった挙句、どうやら般若心経が良さそうだという結論に達しました。
毎日いろんな人が病気や事故や戦争で亡くなっていますが、知らない人たちに向けて読経するというのは、何かこう違うというか実感が湧かないという感じなので、自分が直接関わりをもった方で既にあちらに向けて旅立った方々に向けて何かしようと思った次第です。ご先祖様だけでなくてね。
般若心経って?
般若心経は、日本で最もポピュラーなお経で様々な宗派で唱えられています。正式名称『般若波羅蜜多心経』(はんにゃはらみったしんぎょう)は、たった300字足らずの本文に大乗仏教の「空」の心髄が説かれているとされています。
この般若心経は、西遊記でも登場する玄奘三蔵訳とされるの漢訳版がほとんどです。仏教用語の概念については調べればいくらでも出てきますので、ここでは割愛します。
仏教用語と照らし合せながら読み進めていけば、漢字文化の中で暮らす私たちでも内容をなんとなく理解できるはずです。漢字文化サイコーです。また、YouTube動画やルビが振ってある印刷用の般若心経もサイトにたくさんあるので、興味がある方は探してみてください。
唯一、呪文っぽいのは最後の羯諦羯諦(ぎゃあていぎゃあてい)。波羅羯諦(はらぎゃあてい)。波羅僧羯諦(はらそうぎゃあてぃ)菩提娑婆訶(ぼーじーそわかー)。ここは、あえて訳すべからずと言われています。
この部分の漢字も当て字で、漢字にも意味はありません。訳すよりも声に出すことが重要とか。般若心経の中で一番大切なマントラ(呪文)の部分だそうです。玄奘三蔵が旅の中で出会った怪物をこの言葉で退けたとのエピソードもあります。
般若のお面と般若心経とは全く別物です。般若のお面は一説には、「般若坊」という僧侶が作ったところから名がついたといわれているそうです。この勘違いから、般若=怖いものと連想して、変な霊が寄ってくるなんて俗説が生まれたのかもしれませんね。
般若心経を解説したサイトはいくらでもありますが、これらを読んでいくととてもじゃないけど、変な霊がよってこれるような内容じゃないというか。まぁ、ほとんど哲学を語ってるんですよね。合理的というか、生老病死を起点に考えていくと、納得できる内容なので文章としてもしっかり筋が通っています。
そもそも、仏教の主題は「救い」ではなく、「苦からの脱却」と言われています。この「苦の脱却」に用いるのが「思考」なんです。
そういった理由から、現代人の間で仏教の人気が再び高まっているような気がしないでもありません。生前のブッダが死後の世界を語らなかったと言われていますが、これは弟子たちそれぞれに「考えること」を促すために敢えて口を閉ざしたように思われます。
妄想する暇があったら現実を見つめて、幻に囚われずにどうしたらいいか考えろってことなんでしょうか。