あらすじ
話は悩みを抱える青年とアドラー心理学を研究している哲学者との対話形式で進んでいきます。
全体の構成はとても読みやすかったです。
実用的な箇所もありました。
腑に落ちないというところも。。。
順を追って感想を書いていこうと思います。
各章に魅力的なタイトルが並んでいます。
このリストに興味を持たれた方は、本書をまずは一読してみた上で、私の感想文を読んでもらえると嬉しいですね。
- トラウマは存在しない
- すべての悩みは「対人関係の悩み」である
- 劣等感は主観的に思い込み
- 人生は他者との競争ではない
- 非を認めることは負けじゃない
- 承認欲求を否定する
- 課題の分離とは何か
- ほんとうの自由とは何か
- あなたは世界の中心ではない
- 叱ってはいけない、褒めてもいけない
- ここに存在しているだけで、価値がある
- 自己肯定ではなく、自己受容
- 普通であることの勇気
- 人生最大の嘘
結論からいうと、この「嫌われる勇気」はブームで終わります。
理由は2つ。
身につけるためのコストが高すぎるのと、実現するためのツールが貧弱なためです。
理由1:コストが高すぎる
『嫌われる勇気』が身に着くためにあなたが支払うコストは、本代の1500円(税別)ではありません。あなたが生きた年数の半分だそうです。
本書の244ページ参照。
なかなかのコストですね。
時間はお金よりも高価です。
私の年齢30歳ちょっとですから、あと15年かけて残された時間をアドラーの心理学をベースとした「嫌われる勇気」に掛けるのはちょっと無理です。
学問というよりは、これは『修行』と言って差し支えない内容です。
理由2:個人の心理学といいながら、アドラーの心理学にはツールがない
最大の弱点。
ツール(道具)がなければ実践のしようがありません。
厳密に言えば、書かれている内容というのは『思考の行』なので、全くツールがないわけではありませんが、凡人には実践不可能です。
考え方をシフトする力を「思考そのものに求める」のは、とても難しいと思いませんか?
Amazonレビューを読んでいくと、仏教思想に近い箇所が見受けられるとありました。
仏教の瞑想などはまさしく鋭敏な思考の行ですから。
このあたりは頷けます。
仏教では瞑想をベースに思考していきます。
この点が非常に重要で、ツールの有効性を示しているとも言えます。
あのジョブズも瞑想を実践していました。
ツールってどんなもの?
原始仏典の一つ、ダンマパダには「犀の角のようにひたすら孤独に歩め」という言葉が何十回も出てきます。
うんざりするほど、出てきます。あれわざとやってるんですよね。「繰り返しは習慣化」のツールです。
何度も何度も心に擦り込むように言葉を繰り返すのです。
人が今すぐ変われないことを当時の僧侶は知っていたのではないかと思うのです。
日本の仏教ではどうでしょう?
例えば、日本で一番有名なお経で般若心経があります。
これは、繰り返しではなく、「韻を踏んで」言葉を心に響かせます。
ラップの源流ですね(笑)もっと簡単なものになると念仏にまで圧縮されます。
キリスト教でも「聖書や賛美歌」といったツールがあります。
ツールの役割って?
もう少し掘り下げてみましょう。ツールがあるということは、その考えが認知され広く社会に浸透しやすいのです。
私たちは脳みそだけで生きているわけではないのです。
心はその手にあり、瞳にあり、耳にあり、全身にあるものです。
例えば、アドラーは賞罰教育を明確に否定しています。
そこは全く同感でとても勉強になりました。しかし、アドラー教育法というものは聞いたことがありません。
キリスト教系や仏教系の学校、さらに言えばモンテッソーリやペスタロッチィ、クリステン・コル、アンドリュー・ベルの教育法を実践している学校はありますね。
どうしてアドラー教育法がなくて仏教系やキリスト教系やその他の教育方法が存在出来るのでしょうか?
それはそれぞれちゃんとした「ツール」を持っているからです。
勇気の心理学を実践する人たちがツールを生み出せるか?
アドラーの心理学は「勇気の心理学」と言われています。
素敵な耳心地です。
ブッダだって、キリストだって、ツールなんて作ってません。
口頭で自分の考えてを伝えていただけです。
アドラーもそのような方法を取っていたようですね。
聖人の弟子たちが、ツールとして経典や聖書などの作りました。
ツールを作った途端に、純粋なものというは濁りはじめます。
しかし、世界に広めていくにはこの道を避けて通ることは出来ないのです。
そのツールが人々を正しく導くこともあれば、誤った道に導くこともあります。
ツールとは純粋な考えを腐らせる効果があるように思います。
けれども、俗化することはある種の拡散力なのです。
この本にはこれが決定的に欠けています。
ツール(道具)がないのです。
思考に力を求め続けるなら、考え方のシフトだけに期待を寄せるなら、「嫌われる勇気」がこれ以上広まっていくことはないでしょう。
もし、アドラーの勇気の心理学を実践されている方々は、自身の半生を賭して実践し、勇気の心理学のツールなるものを作ってみられてはどうでしょうか?
誰ももう、わたしの名前など覚えていないときがくるかもしれません。個人心理学という学派の存在さえ、忘れられるときがくるかもしれません。けれども、そんなことは問題ではないのです。なぜなら、この分野で働く人の誰もが、まるでわたしたちと一緒に学んだように行動するときがくるのですから。
—アルフレッド・アドラー、”Alfred Adler as We Remember Him” (1977)