般若心経について調べていた時に、これほど間抜けな情報が検索上位に表示されることに辟易としました。
結論からいうと、般若心経を唱えても霊なんて寄って来ません。
肉食妻帯のお坊様がお経を唱えても死んだりしてませんよね?
唱えた直後に体調悪くなったのであれば、心療内科でも行ってお薬もらってください。
般若心経の出自を少しでも勉強すれば、こんな馬鹿げたデマに惑わされることはありません。
仏教はロジカルそのもの。認識のための哲学です。
その仏教の認識プロセスが論理的に展開されているのが般若心経なのです。
ポイントは3つです。
1.般若心経は素人の為に作られたお経
そもそも、般若心経は私たち素人が唱えられるために作られたお経です。
般若心経は作者不詳のお経ですが、仏教の真髄を現した経典として宗派を超えて読まれています。
仏教における空前絶後史上最強のお経であることは間違いありません。
現存する最古の原典(サンスクリット語)は、なんと日本の奈良の法隆寺にあります!
普段、私たちが目にする般若心経は西遊記でおなじみの玄奘三蔵の漢訳版です。
般若経600余巻をわずか262文字の中に見事に結晶化されたものです。(これには諸説あります)
色即是空(しきそくぜくう)でおなじみの「空」の概念を導入部として無分別智へ導く哲学が美しい響きで展開されています。
2.般若心経は成仏を目的としていない
内容を読めばわかりますが成仏を目的としていません。
この世界の捉え方について説明したものです。
悪霊退散とも成仏についても一言も触れてません。
少し現代語訳してみましょう。
あくまでも成仏を目的としていないという観点での訳です。
菩薩が、修行をしていた時、
この世のすべてに実体がないことを悟りました。
感じること、想うこと、判断すること、意識すること、これらも全て実体はない。
この世のありとあらゆるものが実体がない、すなわち空。
生まれることもなければ、滅することもない
汚れることもなければ、綺麗になることもない
増えることもなければ、減ることもない
ゆえに、この空の世界においては、色は無く、
感じること、想うこと、判断すること、意識すること、
これらの精神作用もない。
眼も、耳も、鼻も、舌も、身体も、意識もない。
それらが感知する色も、音も、匂いも、味も、感触も、
意識の対象もない。
眼で見た世界から、意識で思われた世界まで、
そのすべてが無いのだ。
無明もなく、無明が尽きてなくなるということも無い。
老死もなく、老死がなくなることも無い。
「人生は苦である」という真理も無い。
「苦の原因は煩悩である」という真理も無い。
「煩悩を無くせば苦が消滅する」という真理も無い。
「煩悩を無くす道がある」という真理も無い。
知りことも無く、得るものも無い。
もともと得るということが無い。
菩薩たちは心にこだわりがない。
こだわりが無いゆえに、恐れも無い。
誤った認識の世界から遠く離れ、
安らぎの境地に達している。
過去、現在、未来のすべての仏たちは、
修行により完全なる悟りに達する。
智慧の修行にて神秘的な呪文を、
明らかなる呪文を、
超えるものなき呪文を、
並ぶものなき呪文を。
それらはすべての苦しみを取り除き、
真実であり、偽りなきものである。
では、その呪文を説こう。
いけよ、いけよ、彼岸へと行き着く者よ、
それが悟り。幸あれ!(=ソワカ!)
3.般若心経と念仏の違い
般若心経と念仏を一緒くたに考えている人もいると思いますが、この二つはかなり違います。
般若心経は、ありがたいお経ではないのです。仏教哲学の真髄を論理展開したものです。
乱暴な言い方をすると、こうです。
般若心経=釈迦の言ったこと
念仏=仏にすがる
念仏とは、阿弥陀様などの仏への帰依を表明したものです。
たとえば、南無阿弥陀仏なら、南無=帰依します、阿弥陀仏=阿弥陀様にとなります。
これなら悪霊に効くかもと言われれば、そうかもねって答えるでしょう。
お釈迦様はあの世があるともないとも言ってませんけどね(笑)
現代のような思考を重んじる時代では他力本願スピリチュアル系の念仏よりもロジカルな般若心経のようなお経の方に支持が集まりつつあるような気がします。
初期仏教を見直す動きを見ていると、単なる原理主義ではなくて自分の心と頭で仏教を理解したいという人が増えているのではないでしょうか。