不安は本当にマボロシなのか?

不安は本当にマボロシなのか?

半年前に読んだとあるお坊さんのコラムが未だに頭を離れない。

その内容をざっくり言ってしまうと、「不安や恐怖はマボロシである。囚われるな」ということでした。

これは時々出てくる物言いで、新しいものでも何でもない。

使い古された言葉で、現代に至っては、その効果はゼロだと思う。

だって、お坊さんのいう「不安はマボロシ」と凡人の考える「不安はマボロシ」には天と地との差があるはずだから。

前者は悟った結果、後者は逃げの結果。

『不安』というのは、ただマボロシで脳が作り出した妄想でしかないという話を聞くけれど、本当にそれがマボロシであるならば、さっさと雲散霧消してくれたっていいじゃない。けれども、なかなかそうはいかないよねって思ってる。

それは君がマボロシに囚われているからだと一喝されるかもしれないけど、どうも腹に落ちてこない。『不安』を完全に解消するなんてことは誰にも出来ないんじゃないかな。

『不安』との戦いこそが人生の醍醐味であるし、実体のあるものとして向き合った方が自分にはしっくりくる。

『不安』って実体があるんだよ

『不安』というのは人を恐怖に導くし、死に至らしめることもある。軽微な不安でも脈は早くなるし、顔色も悪くなる。強いストレスなんかは脳内にアンモニアが溜まっていくという始末。

『不安』が肉体に及ぼす影響に想いを巡らすと、やっぱり『不安』は不可視でも実在するものなんじゃないかと思う。

その昔なら『不安はマボロシ』で良かった

今、河口 慧海のチベット旅行記を読んでいると、当時のチベットの人々の考え方というのは、現代の日本人と著しくズレていることが伺えます。

作中では、当時の人々が恐ろしいほど迷信に囚われて生きいるのがありありと伝わってくる。

もう、当時の人々のこじ付けようと言ったら、なんじゃコリャって感じです。理性に包まれていない、むき出しの心の状態というのは、動物的に純粋であり、グロテスクにも感じます。

気軽に盗みを働いたり、人間を大根を切るみたいにスパッとやる。そんなことがまかり通っている。しかも、現代人の衛生感覚からは口にだせないほど汚穢で不潔。。。いや、本当に。

文明が発達していないほど、そういった傾向にある。現代のナイジェリアにおける黒魔術信仰とかも少し調べてみれば、この辺りはわかると思います。

仏教成立時代に、『お前らの考えていることは全部妄想じゃ!』と言えばなるほどと思う。半分ケモノのような生き方をしている人たちにはそれをハッキリ言ってあげないといけない。

そういう物言いが、当時の時代精神を次のステップへと導いたんだろうなぁと思う。だから今がある。

そういった考えで行くと、占いが大好きな日本人にも「不安は妄想じゃっ!」っていうのは効くかもね。

占いが大好きな人というのは、私から見ると『半動物人間』。

日本国内における『同調圧力と占い好き』というのは、根は同じような気がします。。。

ちなみに仏教において占いの類は禁止されてます。

座して不安と向き合うからこそ

凡人が不安をマボロシと考えるのは、健全な逃げの姿勢。撤退。敵前逃亡ね。これはこれでアリ。僕もよくやっている。でも、お坊さんのいう「不安はマボロシ」ということこと全然イコールじゃない。

不安の性質を透徹するチカラがないと、真の意味で不安がマボロシであるという考えには至らない。

悟った人々は、不安を消す凄まじい能力があったということ。

これは簡単な事じゃない。

ということは、私たち凡夫にとって不安がマボロシであるという結論には簡単に到達しないとも言える。

人から受けたストレスで不安になることもあれば、人から受けた好意でストレスから解放されることもある。

不安というのは、人生に弾力を与えるものであって、マボロシと切り捨てるには私には早すぎるかなぁとも思ったりするのです。

自分の人生を破裂されるような強い不安に対しては、もう逃げるしかない。だって『不安』はマボロシじゃなくて実害のある『実体』だから。マボロシなんて考えるよりはとにかく逃げろと言いたい。

もし、まだ余力が残っているなら、まずは不安を実体があるものとして考える。その不安の元を突き止めてみる。生老病死に関しては、もうどうしようもない。

不安を自分の茶室に読んで対話する気があるなら、曇り空の灰色にも美しい明暗のグラデーションがあることに気づくかもしれません。

という殴り書きでした!