白くて長いあご髭、大きな耳たぶで描かれることが多い老子。
仙人と言われて想像する人物といえば、やはり老子でしょう。
岩波文庫から出ている老子を読み終えて、ネットを中心に出回っている印象と少し乖離があるなというのが正直な印象です。
老子思想を変に盲信しちゃう危険性もあるので、ちゃんと蜂谷邦夫氏訳注の『老子』を読んでみた方がいいです。
平易な日本語で書かれており読みやすいく、良書です。
後半の解説も大変勉強になりました。
老子は紀元前6世紀の人物とされ、神話上の人物とする意見、複数の人物を統合させたという説がありますが、詳しいことはまだ判明していません。
Wikipediaの老子に関する記述を読んでみても、老子という人物についてはまだ研究の途上であることがわかります。
老子思想は『欲の否定』から『機心』へ
無為自然や玄妙の門など、老子の思想を体現する言葉はたくさんありますが、一言で老子思想を言い表すとすれば欲の否定です。
質素倹約をすること。
欲せざるを欲す!
もしかすると、ミニマリストたちは小老子と呼ぶべき存在たちなのかもしれないですね。
そして、この考えをさらに進めて『機心』について語っています。ここが老子のすんごい所。引用しますね。
孔子の弟子である子貢が1人の老人に出会った。
老人は、畑作りをしていたが水を撒くのに毎回亀を持って井戸まで行きそれに水を汲んできて畑に撒いている。
大変な労力を使う割には、効果ははなはだ少ない。
見かねた子貢が、はねつるべ(石の重みでつるべをはね上げ、水をくむもの)のことを教えると、老人はこう答えた。
「それは知っているが、機械ある者は必ず機事あり。
機事ある者は必ず機心あり。
便利な仕掛けを使うとを仕掛けが仕事となって、もっと便利な仕掛け降りようとしようとする気持ちが起こり、心の純白さがなくなって心が定まらなくなる。
それは道ではない」
子貢はすっかり感動し孔子のもとに帰るとこのことを報告した。
荘子 -天地編より-
老子は集合知ではないだろうか?
中国の春秋末期(紀元前403年頃)には常に激しい戦争が繰り返され、それを嫌い隠遁する『老子のような知識層』が存在したのは間違いないようです。
老子の考え方というのは、このような知識層が作り上げた一つの集合知ではないかと。
もちろん、老子の種となるような人物が存在した可能性は高いですが、現代に伝えられる老子思想の内容を読んでいくと、どうも一人だけとは思えない。
たとえば、こんな感じで老子思想が出来上がってきたんじゃないかと。
ネットの巨大掲示板のように、スレ立てをしてそれにみんなが言葉を乗せていく。
老子っぽい考えが出たら、みんなでイイね!して書き留めていく。
あくまでも想像ですが。
この岩波文庫で書かれている老子の発言というのは、一つ一つは老子っぽいですが、全体を俯瞰してみると非常にブレが大きいです。
反権威主義的でありながら、政治について口を出してみたり、無為自然と言っておきながら儀礼に関するアドバイスをしたりと、禅問答のような屁理屈、どう考えても一人の人間の発言とは思えないのが本音。
ただ、もし老子思想が集合知として形成され続けているのであれば、これはこれですごく面白い。
老子思想自体が多くの人の手によって進化と退化を同時に進行させているということであれば、この現象こそ命を宿した脈打つ思想であり、老子思想の神髄だと私は断言しちゃいます。