私は宮沢賢治が大好きです。その中でも新潮文庫が出している藍色の装丁「新編 銀河鉄道の夜」が一番好きです。収録されている作品も粒ぞろいで、目次に次の作品が並んでいます。
双子の星
よだかの星
カイロ団長
黄色のトマト
ひのきとひなげし
シグナルとシグナレス
マリヴロンと少女
オツベルと象
猫の事務所
北守将軍と3人兄弟の医者
銀河鉄道の夜
セロ弾きのゴーシュ
飢餓陣営
ビジテリアン大祭
銀河鉄道の夜
銀河鉄道の夜はあまりにも有名で、アニメにもなったくらいですからここで詳細を述べようとは思いません。よく引き合いに出される素敵な一文だけご紹介します。
その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立っていたのです。
ビジテリアン大祭
意外と知られていないのが、このビジタリアン大祭(ベジタリアンのお祭)。
これはなかなか面白いですよ。ベジタリアンと非ベジタリアンとの議論の応酬がとてもコミカルでテンポ良く進んでいきます。もし、今を生きる私たちがこの物語を読んだなら、肉食の是非だけではなく、私たちが現実に直面している問題において、論理のすり替えがどれほどまかり通っているかを突きつけられる事でしょう。宮沢賢治の故郷がどこであったかを顧慮するならなおさらのことです。
もしこの短編を読む機会がありましたら、最後に主人公が放つ一言に注目していただければと思います。全く正論な感情論というのもあるんです。
ベジタリアンと非ベジタリアンのやりとりを一部抜粋します。
「諸君、私の疑問に答えたまえ。
動物と植物との間には確たる境界がない。パンフレットにも書いておいた通りそれは人類の勝手に設けた分類に過ぎない。動物がかあいそうならいつの間にか植物もかあいそうになるはずだ。動物の中の原生動物と植物の中の細菌類とはほとんど相密接せるものである。また動物の中にだってヒドラや珊瑚類のように植物に似たやつもあれば植物の中にだって食中植物もある、睡眠をとる植物もある、眠る植物などは毎晩邪魔して眠らせないと枯れてしまう。食虫植物には小鳥を捕るものもあり人間を殺すやつさえあるぞ。ことにバクテリアなどは先頃までたびたび分類学者が動物の中へ入れてたんだ。
今はまあ植物の中へ入れてあるがそれはほんのはずみなのだ。そんな曖昧な動物かも知れないものは勿論仁慈に富めるベジタリアン諸氏は食べたり殺したりしないだろう。ところがどうだ諸君諸君がちょっと菜っ葉へ酢をかけてたべる、そのとき諸君の胃袋に入って死んでしまうバクテリアの数は百億や二百億じゃ効けゃしない。
諸君がちょっと葡萄をたべるその一房にいくらの細菌や酵母がついているか、もっと早いところ諸君が町の空気を吸う一回に多いときなら一万ぐらいの細菌が殺される。そんな工合で毎日生きていながら私はベジタリアンですから牛肉は食べません。なんて、牛肉はいくら食べたって一つの命の百分の一にもならないのだ、偽善といおうか無智といおうかとても話にならない。本当に動物がかわいそうなら植物を食べたり殺したりするのもよしたまえ。
動物と植物とを殺すのをやめるためにまず水と食塩だけを飲みたまえ。水はごくいい湧き水にかぎる、それも新鮮なところにかぎる、すこし置いたんじゃもうバクテリアが入るからね、空気は高山や森のだけ吸いたまえ、町のはだめだ。さあ諸君みんなどこかしんとした山の中へ行っていい空気といい水と岩塩でも食べながらこのベジタリアン大祭をやるようにしたまえ。ここの空気は吸っちゃいけないよ。吸っちゃいけないよ。」
拍手は起こり、笑声も起こりましたが多くの人はだまって考えていました。その男はもう大得意でチラッとさっき懺悔したベジタリアンになった友人の方を見て自分の席へ帰りました。すると私の驚いたことはこの時まで腕をこまねいてじっと座っていた陳氏がいきなり立って行ったことでした。支那服で祭壇に立ってはじめて私の顔を見て、ちょっとかすかに会釈しました。それから落ち着いて流暢な英語で反駁演説をはじめたのです。
「只今のご論旨は大変面白いので私も早速空気を吸うのをやめたいと思いましたがその前にちょっと一言ご返事をしたいと存じます。どうぞその間空気を吸うことをお許しください。
さて只今の論旨ではベジタリアンたるものすべからく無菌の水と岩石ぐらいを食べて海抜二千尺以上ぐらいの高い所に生活すべしというのでありましたが、なるほど私どもの中には一酸化炭素と水とから砂糖を合成することをしきりに研究している人もあります。けれどもここではまず生物連続が面白かったようですからそれを色々応用してみます。
すなわち人類から他の哺乳類鳥類爬虫類魚類それから節足動物とか軟体動物とか乃至原生物それから一転して植物、の細菌類、それから多細胞の羊歯類顕花植物(しだるいけんかしょくぶつ)とこう連続しているからもし動物がかあいそうなら生物みんなかあいそうになれ、顕花植物なども食べても切ってもいかんというのですが、連続をしているものはまだいろいろあります。
たとえば、人間の一生も連続している、嬰児期幼少期少年少女青年処女期壮年期とまあこうでしょう、ところが実はこれは便宜上勝手に分類したので実は連続しているはっきりした堺はない、ですから、もし四十になる人が代議士に出るならば必ず生まれたばかりの嬰児も代議士を志願してフロックコートを着て政見を発表したり燕尾服を着て交際したりしなければいけない、又小学校の一年生にABCを教えるなら大学校でもなぜ文学より見たる理論化学とか、相対性学説の難点とかそんなことばかりやってABCを教えないか、とこういうことになります。
あるいは他の例をもってするならば元来変態心理と正常な心理とは連続的でありますから人類はすべからく瘋癲病院(ふうてんびょういん)を開放するかあるいはみんな瘋癲病院に入らなければいけないとこうなるのであります。この変てこな議論が一見菜食だけに適用するように思われるのはそれは思う人がまだこの問題を真剣に考え実行しなかった証拠であります。こんなことはよくあるのです。
いくら連続していてもその両端では大分違っています。太陽スペクトルの七色をごらんなさい、これなど両端に赤と菫(すみれ)とがあり真ん中に黄があります。ちがっていますからどうも仕方ないのです。植物に対してだってそれはあわれみ痛ましく思うことは勿論です。
インドの聖者たちは実際故なく草を伐り花を踏む事も戒めました。しかしながらこれは牛を殺すのと大変な距離がある。それは常識でわかります。人間から身体の構造が遠ざかるに従ってだんだん意識が薄くなるかどうかそれは少しわかりませんがとにかく我々は植物を食べる時そんなにひどく煩悶(はんもん)しません。そこはそれ相応にうまくできているのであります。
バクテリアの事が大変やかましいようでしたが一体バクテリアがそこにあるのを殺すというようなことは馬を殺すというようなのと非常なちがいです。バクテリアは次から次へと分裂し死滅しまるで速やかに速やかに変化しているのです。それを殺すと言ったところで馬を殺すというようのと大分違います。またバクテリアの意識だってよくはわかりませんがとにかく私どもが生まれつきバクテリアについて殺すとかかあいそうだとかあんまりひどく考えない。それでいいのです。また仕方ないのです。
ただしこれも人類の文化が進み人類の感情が進んだときどう変わるそれはわかりません。インドの聖者たちは濾さない水は飲みません。普通の布の水濾しでは原生動物は通りますまいがバクテリアは通りましょう。まあこれらについてはいくら理論上何と言われても私たちにそう思えないとお答え致すより仕方ありません。
やがて理論的にもまたその通り証明されるにちがいありません。私の国の孟子という人は徳の高い人は家畜の殺される処又料理される処を見ないと言いました。ごく穏健な考えであります。自然はそんな落とし穴みたいなことはしませんから。私どもは私どもに具わった感官の状態私どもをめぐった条件において菜食したいとこういうのであります。ここにおいて私はあえて高山に逃げません。」
陳氏は嵐のような拍手と一緒に私の所へ帰ってきました。