装丁デザインがちょっと残念ですが、中身はとってもいいんです。この本を買ったのは、遠藤周作の沈黙を読んで少し気になった箇所があったからです。
遠藤周作の『沈黙』の文中に次のような描写があります。
パードレと呼ばれる司祭が、ついに捕らえられ奉行所へと連行されていくシーンで、晒し者になります。嘲笑する民衆に混じって司祭に対して棍棒を持って威嚇するような仕草をする仏教徒が出てくるのです。
そういえば、仏教も弾圧され差別された時代があったようなという曖昧な記憶が蘇り、ぶらぶらと本屋に立ち寄って本棚のインデックスを眺めているところに、この本を見つけたというわけです。
仏教弾圧の歴史でいうと、明治時代の廃仏毀釈などをすぐに連想しますが、実はその前にも仏教に対する強い弾圧があったことを五木氏は教えてくれます。
なぜ念仏(浄土真宗)は弾圧されたのか?
舞台は1400年代の薩摩藩。時代は加賀の一向一揆で全国の藩主が戦々恐々としていた時代。薩摩藩の為政者が、浄土真宗を恐れるようになったのは、その仏の前では領主であろうと、武士であろうと、貧しい農民であろうと、女であろうと、子供であろうと、皆平等という今でいう『危険思想』のためです。
当時は想像を絶する性差別や身分差別によって権力を維持していました。士農工商穢多非人の身分制度ですね。それを転覆させかねない考えのため強く弾圧されたのです。
弾圧側も信仰側も狂気の沙汰
今のぬるま湯に浸かった私たちの精神状態から見ればの話です。300年の弾圧に耐えて守られた信仰があったとするなら、これは形はどうであれ鋼の信念です。実際に、どんな拷問があったかは作中に記載されているのでここでは描写しません。
思想弾圧には拷問がつきものです。これはどの宗教にも言えることでしょう。だからと言って簡単に宗教を否定するような事はいけません。唾棄すべき一面がある一方で、素晴らしい文化を花開かせたのもまた事実ですから。
私たちは虫ケラという民草(たみくさ)
遠藤周作『沈黙』では、精神的拷問によってキリスト教を捨てた司祭が描かれます。これを転んだ、転び者、転向者と言うそうです。仏教の場合でも、同じように信仰を捨てさせることを転ばせると表現するそうです。嫌な言葉ですね。
こうやって時代を遡っていくと、為政者というのは常に民衆を脅威と考え、如何にコントロールするかを考えつづけてきたんだなというのがよくわかります。
批判精神に溢れた評論家まがいの人が増えた昨今ですが、実は私たちは為政者ではありません。私たちはやっぱり民衆なのです。もちろん主権在民ですが、投票率は50%程度。五木氏は作中で民衆を民草(たみくさ)と記してしますが、私はこの言葉が好きです。戦時中はよく使われた言葉だそうですね。
一般的に民衆をバカにしたあまり良くない表現だと言われていますが、果たしてそうでしょうか。民草という言葉が評論家気取り私たち自身を戒める言葉として響いてこないでしょうか?
Tips
廃仏毀釈:仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏習合を廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。
浄土真宗:日本の仏教の宗旨のひとつである。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し展開させる。親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させる。他の仏教宗派に対する真宗の最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許される、無戒であるという点にある(明治まで、表立って妻帯の許される仏教宗派は真宗のみであった)。
[…] 遠藤周作の『沈黙』や池上彰と考える『仏教って何ですか?』や、五木寛之の『隠れ念仏と隠し念仏』を皮切りに、私の中で静かな仏教ブームが到来しています。 […]