幸福「論」なんて題してあるものだから、こちらも表紙を開くまではなんだか身構えてしまいます。
原題は『幸福についてのプロポ』なんです。
プロポというのは、哲学断章という意味らしいんですが、読むにあたってはあまり意識しなくてもいいと思います。
アランの幸福論とは?
本書は、ルーアンの新聞に「日曜語録」として連載され、総計5000に上るアランのプロポ(哲学断章)のうち、93のプロポを収録したもの。「哲学を文学に、文学を哲学に」変えようとするこの独特の文章は「フランス散文の傑作」と評される。もともと、体系化を嫌い、具体的な物を目の前にして語ろうとしたのがアランの手法であったため、このような独特の構成となっている。
アランの本名は、エミール=オーギュスト・シャルティエ。教師、哲学者、評論家、モラリスト。20世紀前半フランスの思想に大きな影響を与えたとされる。
戦争の愚かさを体験するためにあえて危険な前線に従軍するような人物。
健全な身体によって心の平静を得るコツを説く。また社会的礼節の重要性も強調。
幸福を論じるというのは、とてもデリケートで、反感を招きやすい性質のものです。
ギラギラと輝くダイヤモンドのようなものが幸福だと考えるなら、この本はただの紙屑としか感じないでしょう。
アランの幸福論は不思議な本です。
文体はふんわりとして重みがなく、3ページ一区切りの小さなテーマで彼の想いが強い主張もなく流れていきます。
ただひたすらに3ページ一区切りのプロポ(哲学断章)が流れ落ちている、ただそれだけです。
朝食のフルーツを彷彿とされせるプロポたち
読んで幸せになるというものでもないし、人生の指針が教示されているわけでもありません。
深刻な病気や運命の打撃に見舞われている人が、このプロポを読んだらそれこそ怒り狂うに違いありません。
アランの言葉を借りれば、その状態は「必然が予測を手綱で縛っている」ためであり、外からの言葉を待つ状況にないからです。
今ある状況にすぐ対処しなければならない人々に向けてこの本は書かれていないとも言えます。
対象としているのは、幸福な日常を送っているはずなのに、不幸を装う人たちに向けた本であるということです。
薄くスライスされた幸福の断面図たちは、朝食で出されるフルーツを想起させるような瑞々しさで、語りかけてきます。
干からびた顔で朝食の席につく大人たち、潤いを注ぐ力がこの本には込められています。
批判旺盛な社会の中で、ふと、マルコ の福音書4章24節から34節まで(新改訳聖書)のこの一節を思い出しました。
「人を量る量りで自分が量られる」
断罪することに慣れてしまうことは、罪なのかもしれません。
ある種のぬるさが漂うアランの幸福論。
このぬるさを正しい食べ物として味合うということが、現代人には必要なのかもしれません。
この文体が味わい深いというのは、心の食べ物という視点からも本当だと思いますよ。
本当にそれはセ・ラヴィか?
フランスには、C’est la vie.(セ・ラヴィ)という言葉があります。
フランスだけでなく英語圏でもしばしば耳する決まり文句。日本語にすると、「これが人生さ」「人生って、こんなものさ」「仕方ない」などに相当します。
一般に、あきらめ顔、悲しそうな顔、達観した顔、むずかしそうな顔から出てくる言葉。
こうした早計な人生観を、瑞々しい文体で洗い流そうとしたのがアランの幸福論なのかもしれません。
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