「山月記」と聞けば、高校の教科書によく出てきますよね。中島敦の短編小説で、知ってる人も多いでしょう。
中国のとある詩人が夢破れて虎に変身しちゃう話です。
彼のスタイルは漢文調の格調高い文とユーモラスな文とを交互に織り交ぜるのがその特徴だったそうです。
ざっくりあらすじ
唐の時代、主人公の李微(りちょう)は、超難関と言われた科挙(官僚になるための試験)に合格し、位の高い役人に任命されました。
けれども、詩人として大成する夢を捨てきれず、その職を辞して辺境の地で詩作にふけります。博学で秀才だった李微(りちょう)でしたが、詩作に関しては大成することなく、生活苦もあり官職に戻ることを余儀なくされます。
かつての仲間たちは皆出世をし、位の低い職にしかつけない李微(りちょう)は、強い屈辱を感じます。公用で旅に出たときに、とうとう発狂してしまい、山中に消えてしまいます。
一年後、李微(りちょう)の数少ない友人であった袁惨(えんさん)が旅の途中で虎に襲われます。しかし、その虎はかつて友人だった李微(りちょう)の変わり果てた姿だったのです。
いずれ人間の心が消え、虎となってしまうことを悟った李微(りちょう)は、漢詩を口述するのでそれを後世に伝えてくれないかと友人の袁惨(えんさん)に頼みます。
そして30編あまりの詩を口述。友人の袁惨(えんさん)はこの詩群を書き留めながら、確かに上手いとは感心したものの、同寺に何かが欠けているとも感じていました。
李微(りちょう)は、自分の運命は因果応報だと語ります。人間だったころにプライドが高く尊大なところがあったが、実のところ、それは臆病と羞恥心の表れであったことを告げます。
その臆病さと羞恥心から、人との交わりを絶ってしまい、切磋琢磨していくことで得られる成長の機会を逸したと伝えます。
さらに、人間は誰でも猛獣使いだと語ります。猛獣とは人の欲望のこと。李微(りちょう)の場合は臆病で尊大な羞恥心が猛獣であり、その権化がこの虎の姿であったと言っています。つまり、猛獣使いの手を離れて欲そのものが主人となってしまったということです。
最後に李微(りちょう)は月に向かって咆哮します。なんとも物悲しくそして美しいクライマックス。
夢破れた孤高の虎
山月記の話のベースは唐代に書かれた伝奇小説の一編で「人虎伝」というお話がベースになっています。
この本を読んで、カフカの「変身」を想起した人もいるでしょう。ここで面白いのは「変身」で出てくる主人公の変身後の姿は醜い「虫」です。
比して、山月記では力強い「虎」の姿。単純に畜生に身をやつしたという話であれば、何も高貴な虎でなくても良かったのではと思いますが、やはり虎でなければならない理由があったのでしょう。
李微(りちょう)にはある種の気高さが残っていたのです。その気高さとは、残酷であり、人と交わることすら出来ない性質のものです。孤高の気高さですね。
李微(りちょう)は積み上げた「思考」が堆積し、それが人生そのものとなったのです。結局のところ、彼は最初から虎であり、最後は本物の虎になったわけです。
これを読んでマザー・テレサのあの言葉を思い出しました。
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。– マザー・テレサ
自分の夢の殻に溺れた主人公の末路。
物悲しい物語であると同時に、なにかとてもつもなく美しいものも同時に表現した稀有な作品と言えるでしょう。
山月記だけでなく、中島淳の『李陵』や『悟浄出生』などを読んでみると、山月記がただの教訓めいたお話ではなく、人の揺らぎ、運命の揺らぎを表現する素晴らしい作品であることを感じ取れると思います。
残酷な人生の美しさを凝視する眼差しに、胸打たれるものがあります。
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