時折、巷を賑わせる努力論や成功哲学。
努力の結果として成功がある、いや才能のある者だけが努力によって成功するなどなど、芸能人の放った一言に大いに納得してみたり反発してみたり。
努力は徒労に過ぎず、夢中になって追い求めていることが正しい姿とか、今度は夢追い人を否定してみたりと、まぁこの話題はいつもせわしい感じがしますね。
違う世界に住む成功と努力
言葉にすると並列に並べられてしまう成功と努力。けれども、この2つは住んでいる世界が全く違うはずです。
決して触れ合うことのない2人。だから、いつも議論がちぐはぐになる。
成功は感覚世界の王様で、努力は時間世界で生きる乞食なんじゃないかと最近思うようになりました。
成功という王様
僕は成功という言葉がどうも引っかかります。成功の定義がいつまで経っても曖昧だから。だから、ルールを決めて平均化してその中で平均以上で秀でたものを成功だと人は呼びます。学歴、年収、容姿などなど。
そのほかの成功の定義はあまり語られません。それは成功の境界が曖昧で多くの人が価値の有無を判断できないからです。
だから成功はいつも俗に毒されさてしまいます。しかし、成功しているという自負は人間の感覚の中で最上位の喜びであることは間違いないでしょう。ですから、感覚世界の王様と呼べるかもしれません。
成功は流動的な感覚世界の生き物です。成功は雲の上のお城に住んでいます。考え方一つで過去が成功へと姿を変えますし、成功と思えたものが失敗になることもあります。
境界線も曖昧で、美しくてもろくていつも他人様の評価。それが成功に他なりません。成功とはきっとそういうものです。
努力という乞食
努力は時間の中でしか生きることが出来ません。非常に制限された存在です。豊かではないという自覚もあるので行為を継続します。
行為を時間に刻み付けるのが努力です。何はともあれ、行為はあなたの記憶にログとして蓄積されていきます。能動的な行為であればあるほど。
努力は感覚世界へ羽ばたくための翼を持っていません。努力によって翼が生えたりもしません。ずっと地べたをアリのように這いずり回ります。これはこれで自己憐憫という卑しい気持ち良さがあるんです。
この卑しさを物乞いと呼ぶことが私にはしっくりきます。苦行僧のやる禁欲のエクスタシーに近いものがあるかもしれません。
この卑しくて貧しくてハングリーなのが努力という乞食。それはいつだって卑小な自分自身のこと。それが努力だと思っています。
人は成功を理解できない
そう思いませんか。成功はルールが流動的する世界の住人。あなたはその住人を常に見つけだすことが出来ますか?
あいつは成功者だ、あいつは人生の落伍者だなどと思ってはみたものの、そのルールは一体誰が決めたんですか? あなたの尊敬する人が決めたんですか? 違います。きっと違います。
世の中に出回っている多くの成功の定義は私たちが嫌いな人たちが決めたルールであって、成功ではなく俗物の定義です。偽物の王様です。
ここでは欲望そのものを否定しているのではなく、成功の仮面を被った俗物を否定しています。俗物は仮面を付け替えることはあっても、決してルールを変えないからです。つまり、それはルールが常に変動する成功とは対極の位置に立っていると言ってもいいでしょう。
一方で努力はどうでしょうか? 自分がひたすら貧しいことを自覚し、主体的に行動を起こして外にあるものを自分の中に取り込んで、少しでも豊かになろうとする姿を美しいとは思いませんか?
努力は人間が生み出す芸術作品であると私は真剣に思っています。身を結ばない努力は確かに徒労でしょう。それでもやはり私は努力する人間が大好きです。
努力が刻むミステリーサークル
地べたを這いずり回る努力というキャラクターは、反復を得意とします。繰り返し同じ道の上を歩きます。歩き疲れて歩みを止めた人の足跡は時間の経過とともに消えていきますが、歩みを止めなかった人はそれぞれの模様を大地に刻み続けます。
その大きな地上絵を雲の上からたまたま気づく者があれば、空にそれと同じ模様がほんの一瞬だけ浮かび上がるのかもしれません。
それが私の成功の定義です。