こんなことを言い出すと全国の子供たちからお叱りを受けるかもしれません。
年末になるといつも思い出すことがあります。それはお年玉のこと。
子供の頃、私は親戚のおじさんたちを勝手にランキング付けしていました。
ランキングの判断材料はもちろん『お年玉の額』。
そして、もらえるお年玉の総額を予想しておもちゃやゲームなど欲しいものをリストアップ。
子供の時分からこんなことをやっていたかと思うと、今でもゾッとします。
子供というのはボキャブラリーこそ少ないものの、モノの考え方は大人が思っているよりもかなり早い段階で成熟し始めます。
それはいい意味でも、悪い意味でも。
子供に現金は渡さない
さんざんおじさんたちから現金をもらっておいて、それは無いじゃないか!と言われそうですが、私は甥っ子姪っ子が高校生になるまで、現金でのお年玉をあげないことにしています。
その代わりに、図書カードでお年玉を配っています。
もらった子供がそれで漫画を買ってしまってもそれはその子の自由。
少なくとも活字は読んでくれますから。
もらった本人は最初ガッカリするでしょう。小学校高学年からその様子が顕著です。
この子たちが、いつか私の意図をいつか汲んでくれると嬉しいと思っています。
お年玉をあげる側なので、勝手に淡い期待を抱く事くらいは許されるはず。
どうしても現金化したい場合は、親に金券ショップにでも連れていってもらえばいいんです。
お金でお年玉を渡す違和感
現在のお年玉はお金ですが、もともとは魂をシンボルとする「お餅」でした。
神聖なものだったんですね。
日本が高度経済成長期に入った昭和30年代後半頃から、お金で渡すお年玉が主流になってきたそうです。
子供はお金のことをよく知りません。
好きなモノと交換出来る便利な紙切れという意識があるくらいです。
ですから、私もポチ袋に多い金額を入れてくれるおじさんが好きでした。
『お金を稼いで出て行くひとつの流れ』を子供たちは何も知りません。
このひと呼吸を知らない子供たちに大人として考え無しに現金を渡してしまうのがなんだか怖いのです。
というか渡してたまるか!というケチ臭い根性もあるのでしょう。
ノッポさんの言葉に、子供を子供としてではなく、ひとりの人間として接することにしているという言葉があります。
この言葉を私なりに解釈して、子供には現金ではなく図書カードをあげることにしています。
これはお年玉を渡す側が、生の現金に対して自分の考えを挟み込む行為です。
お年玉も現金だけじゃなくて、もっと個性的に多様化したら面白いのにと思います。
お金を稼いでくるお父さんの権威失墜も、このお年玉現金化の安易さとどこかで繋がっているんじゃないかとも思える年末年始でした。