僕はずっと冷めたスープだった

僕はずっと冷めたスープだった

このブログは学習記録ブログという意味合いだけではなく、自分が過去にやり残してきたこと、取りこぼしてきたこと、悔しい思いをしてきたことに対してもう一度挑戦するよという意志表明する場でもあったりする。

今は英語がメインだけど、次はドイツ語、その次はとある楽器を習いたいと思っている。それまではこのブログを細々と続けていけたらなと。

誰でもそうだけど、心の内側で「ああしたい、こうしたい」という願望が微熱みたいにずっと渦巻いている。挫折した想いなんかは、時が経つにつれていつのまにか自分の身長を遥かに超える高さになっている。それが現実の壁ってやつなのかもしれない。

渦巻いた願望がごった煮された鍋は、そんなにいいものじゃない。熟成ルーがおいしいのは、予めのスパイスの配合が計算され尽くされているから。計算無しでまぜこぜに作られた鍋はそれこそ闇鍋だと思う。もうどんな味かすらわからない灰色に染まった鍋。

ちょっとネガティブな物言いだったけど、このどろどろとしたものが実は「大人の証明」なんじゃないかとも最近感じている。

そんな大人の証明を持つ僕らは冷めたスープになりつつある。昔のような情熱も無い、若さもない、自由な時間もない。

ふと気付くと、人気のない夜の台所で、気まずい味になってしまったスープを口に含んでから、ほろ苦い涙を流している。だけど、この不味いスープは過去の自分の置き土産。パーティが終わった後のテーブルに置いてあるこの気まずい鍋を再びどう調理するか。

トマトの味が微かに強ければ、それはトマトスープになる可能性がまだあるし、味噌の味が強ければいっそのこと土手鍋にでもしてしまえばいいと思う。

どんなに不味いスープであっても「生」がある限り腐ることはない。だから、それを流しに捨ててしまうということをしてはいけない。

味の方向性が自分のやり残したことを微かに主張している。方向性という抽象的なもの。これが僕の希望。冷めたスープを暖める動機。

店の外に飾ってあるような美しい食品サンプルを眺めるのはもう終わりにしよう。そして自分の家に帰って、冷たくなった自分のスープを今一度味見してみること。これは「大人の証明」を持った僕らにしか出来ないこと。