心の動きを表現する言葉は数あれど、ここ最近で一番大好きな言葉は「射幸心」だ。
射幸心
読み方:しゃこうしん
幸運や偶然により、苦労なく、思いがけない利益を得ることを期待する心理。もしかしたら、くじに当たって大金が貰えるかもしれない、などと考える気持ちや考え方などを指す語。こうした心理を増長させる仕組みを指して「射幸心を煽る」などのようにいう。
実用日本語表現辞典より引用
ギャンブル依存の心理的原因としてよく使用されているこの言葉。ここ数年で少し様子が変わってきた。ITの発達によって、ギャンブルだけではなく、ソーシャルゲームや広告などにもこの「射幸心」が猛威を奮っているように見受けられる。
少し前に話題になったのは、ソーシャルゲームの「射幸性」。これはちゃんとした輪郭を持った問題だったから、みんなの記憶にしっかりと残っている。たかがデータに何十万円というお金をつぎ込むこと行為をせせら笑う人も多いんじゃないかな。
けれども、他人事として笑っていられるだろうか? 今やソーシャルゲームだけでは無く、スクリーンの中に溢れる言葉は「射幸心」を煽るばかりの文言。それに毒されてないとキッパリ言い切れる人が一体どれだけいるだろうか。
見出ししか読まない人たち
ちょっと前まで、中吊り広告のゴシップ紙の見出しを本当だと思う人はそれほど多くなかったはず。だけど、最近ではネットの「見出しだけ」でそれを事実だと勘違いする人が増えている。人間の処理能力を圧倒するネットの情報量は私たちの判断能力をぐいぐい萎縮させる。
何かを考える前にまずは調べるという行為が常となりつつあるかもしれない。アタマの中に最初に出てくるのは、あの検索窓。人は以前よりも「賢く」なったと同時に、「騙され易く」なったような気がしないでもない。
このITがもたらす恩恵の影で肥え太ったのが人間の「射幸心」だ。
自分の判断能力の主権をネットに委ねる機会が増えれば増えるほど、自ずと射幸心を煽る言葉に釣られやすくなる。だって、考えることをヤメてしまっているんだから。
テキストチンピラ
小説家の泉鏡花は、ほんのちょっとした字の書いてある新聞の切れ端でも決して粗末に扱ったことはないという逸話が残っている。現代人の文章に対する姿勢というのはその真逆を行くもので、とにかく文章というのは使い捨てられるのが常である。ペラペラした見出しだけの画面を見て、新しい見出しが無ければすぐに捨ててしまう。
この文字に対する軽薄な態度と、道ばたに唾を吐くチンピラの姿がどうも自分の中で奇妙な一致を見せる。文章を呑み込むことをしないで、口に含んでペッと吐き出す。ネットの世界ではこうした動きが特に顕著な気がしてならない。
そんな文字を大切にしなくなった私たちはテキストチンピラだ。このネットを徘徊するテキストチンピラが、「射幸性の叩き売り」を今日も誰かのモニターの中で盛大にやっている。テキストチンピラたちは、いつの日か「言葉」そのものに復讐されるような気がしてならない。三島由紀夫の文章読本を読んでふとそんなことを思い付いて記事にしてみました。