この本のタイトルはあまりに有名なので耳にしたことがある人は多いと思います。自分もそんなひとり。
ロシアを代表する文豪ドストエフスキーの最後の作品にして最高傑作といわれる長編小説。単行本として出版されたのは1880年。
本来、三男のアレクセイが主人公となる第二部の続編が書かれる予定だったが、その前に著者が亡くなっている。第一部となるカラマーゾフの兄弟において、話は完結しているが、第二部への伏線と思われるサイドストーリーなどが所々にちりばめられていることから、未完の長編小説という見方もある。
「父殺し」を軸に物語は進行していく。主人公クラスの三兄弟と「もうひとりの兄弟」が加わり、物語は重厚な響きを奏でながら、恐るべき傲慢さに対する罪の顕現というそれぞれの決着に向かって収束していく。
登場人物の名前の響き
ロシア語って独特の響きがありますよね。私はこのロシア語特有の響きが大好きなんです。
長男がドミトリー(愛称はミーチャ)、
次男はイワン(愛称:ワーニャ)、
三男がアレクセイ(愛称:アリョーシャ)。
このちっちゃい「ヤ」の愛らしさと、ロシア特有の冷たさというか冷徹さの対比が、何とも言えないスパイシーな印象を残してくれます。愛称で言うと、日本人の「ちゃん」に通じるところがありますね。ドイツ語だと名詞のあとに小さい、可愛らしいということで「ヒェン」を付けます。言葉って面白い!とくに名前は!!
可愛らしいものへの態度というのは、世界共通なのかもしれません。ちなみに、自分の名前に「○○エフスキー」と付けるのが一時期ブームでした(笑)
もう1人の兄弟 スメルジャコフ
カラマーゾフ家の使用人(コック)。てんかんの持病がある。この人物が4人目の兄弟。なんか、この名前のイントネーションだけは、ちぐはぐな印象を受けるんですよね。この人の名前を聞いていると不安になるというか、落ち着かなくなるんです。
ちなみに、スメルジャコフという名前は「クサいもの、悪臭」という意味だそうです。スルメじゃないですよ、スメルです。「におい」というのは、現代になってますます意識化されているように思います。スメルハラスメントなんて言葉がいい例です。
人を区別するためのサインとして「におい」に過敏な人たちが増えてきているように思います。においって遮断するのが難しいですよね。そう、においって「侵入してくる」なんです。半ば強制的にイヤらしい感じで忍び込んでくる。強過ぎる香水の香りや悪臭対して私はそういう感覚を持っています。
次兄イワンが予言したフラットデザイン
もしこの本をよむ機会があるならば、イワンが繰り返し口にする「全ては許されている」という言葉に注目して欲しいです。
フラットデザイン云々の前に、もう一度主要人物の性格をおさらいしてみよう。
物語を読み進めていくにあたって、私がとくに注目したのは兄弟の順番とその性格。長男ドミトリーは、原始的な欲望と高潔さを両崖に橋を架けようと葛藤、次男のイワンは無神論者を装いながらも自分自身が神になることを望む、三男は第二部の小説にて時代の新風を背負うはずだった戦う天使。そしてスメルジャコフという「におい」。
イワンとフラットデザインにどんな関係があるんだ!というご意見もたくさん頂戴できると思いますが、ある時代の変遷をこの「兄弟の順番」に感じるのです。フラットデザインという言葉が、生まれて間もないIT業界から声高に叫ばれているのは、実は時代の要請なのではないかとも思うのです。
フラットになっているのは情報だけではありません。国境も人種や街並さえもゆっくり時間をかけてフラットになっていると思いませんか? 特に日本においてはそうです。人も街並もスマートフォンをいじる姿も含めて、どんどんフラットになっている。
それとは対照的に恐ろしいほど個性に違いが出てきている。でも、その原動力の大半は残念ながらイワンの好む「批判精神」に他なりません。ネットスラングだとメシウマ精神ですかね。もしかしたら、最終的に細分化された個性というのは、1人の人間の中で左右に分かれて殴り合う日を目指しているのかもしれません。
時代はまさしくイワンの時代からスメルジャコフに移行しようとしているように感じます。透明な悪臭(放射能もそうでしょう)の時代に、私たちは果たしてアリョーシャを見出すことが出来るでしょうか?
カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫) ドストエフスキー,亀山 郁夫 光文社 |