遠藤周作の作品です。彼自身の自伝的要素を織り交ぜてあります。複数の男女がそれぞれの想いを抱きながらインド旅行へと向かい、善も悪もない濁ったミルクティー色のガンジス川でそれぞれの答えを見つけていく話。構成はカラマーゾフの兄弟のポリフォニー(複数の独立した登場人物がそれぞれの話をひとつの物語へと紡ぐ)、話の流れはトルストイの光あるうち光の中を歩めを思い起こさせる。
「川はきれいなんですか」と誰かが質問をした。自分の存在を示すための三條の高い声だった。
「日本人から見ると、お世辞にも清流とはいえません。ガンガーは黄色っぽいし、ジャムナー河は灰色だし、その水が混ざりあってミルク紅茶のような色になります。しかし、綺麗なことと聖なることとは、この国では違うんです。河は印度人には聖なんです。だから沐浴するんです」
「日本の禊(みそぎ)と同じですか」と三條は、またかん高い声を出した。
「違います。禊は罪のよごれ、身の汚れを浄化するための行為ですが、ガンジス河の沐浴はその浄化と同時に輪廻転生からの解脱を願う行為でもあります」
「今の時代に輪廻や転生なんかを、信じているんですか」と三條は聞こえよがしに、「本気なのかしらん、印度の人たちは」
「本気ですとも。いけませんか」
江波の声には、この時、添乗員ではなく、インドを軽薄に嘲笑する三條のような観光客への不快感があった。
-深い河-P174より
著者について
遠藤 周作(えんどう しゅうさく、1923年(大正12年)3月27日 – 1996年(平成8年)9月29日)は、日本の小説家。父親の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごす。帰国後の12歳の時に伯母の影響でカトリックの洗礼を受けた。
慶應義塾大学文学部仏文科を卒業後、1950年にフランスへ留学。帰国後は批評家として活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞。キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『海と毒薬』『沈黙』『侍』『深い河』などがある。ユーモアに富むエッセイも多く手掛けた。
Wikipediaより
読み終えて
読みやすい作品です。近年、インドという国の印象は報道を中心に悪くなってくるばかりですが、この作品を読むと、そもそもインドという国は狂気の善悪がある国ともいえそうです。
最近になって知られるようになりましたが、インドは仏教の国ではなく、ヒンズー教の国です。ヒンズー教としての核にカースト制があります。この辺りは士農工商穢多非人、または戦時中にあった一等国民、二等国民、三等国民などの差別よりも残酷で厳密なものと言えそうです。これを抜きにインドは語れません。
イギリスの植民地時代にこのカースト制は悪しき意味で利用され固定化された経緯があります。現在、都市部を中心にこのカースト制の意味は薄れつつあるものの、南部の農村ではまだ根強い力を持っているそうです。また、カースト制ゆえの凄惨な事件が起きていることも事実です。
それと対をなす存在が駆け出しのカメラマンである三條という若い日本時男性です。彼は、ガンジス川に流される死体を撮影しようというタブーを犯そうとします。人間の死を被写体として捉えようとする好奇心は、先日人身事故を起こしてガラスの割れた車両を撮影した日本人の姿と不思議とダブります。
深い河というのは、両岸を作り出します。この二つの岸が深い断絶を示すような気がします。深い河に架かる橋が無ければ、両者は行き来出来ません。読んでいると、インドが持つ土着の狂気と、日本の冷徹さとが交差していきます。そしてその交わりの真ん中に神父になることを許されなかったクリスチャンの大津という人物がすっと立っている。
苦しいことが流行ってる
苦しいことにハマることもある種の歓楽ではないかと思っています。これがインドにハマるや、断捨離、断食にハマるということに似ているように思えてなりません。インドの苦行僧なんかはその典型です。世俗から離れ、自分をいじめ抜くことで自分という存在が高まることを知っているのです。
問われるのは、さっぱりした私たちがその後に何を始めるのかということ。日常の雑務は機械が代行し、続いて時間を奪うコンテンツを意識的に排除し、遂に健康を害する誘惑を退けた時に、私たちは私たち自身に何を問いかけるのか?
この問いかけに答えてくれるのは、物語の最後に出てくるある女性の言葉に集約されているかもしれません。是非、読んでみてください。