三島由紀夫の作品はこれが初めてですが、すごく読み易かったので驚いています。『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、などの代表作はまた改めて読もうと思います。
文章を味わう習慣
文章読本の中に文章を味わう習慣という項があります。これがネット三昧の私には結構響いたないようでした。ちょっと抜粋してみましょう。
現代では文章を味わう習慣よりも、小説を味わうと人は言います。彼の文章がいいという言葉はほとんど聞かれず、彼の小説は面白いと言われます。ところが文章とは小説の唯一の実質であり、言葉はあくまでも小説の唯一の材料なのであります。
あなた方は絵を見るときに色彩を見ないでしょうか。あなた方は音楽を聴く時に音を聴かないでしょうか。ところが言葉は小説における音符なのであります。さっきからたびたび繰り返したように、文章を味わう習慣は、民衆のあいだでは長いこと耳から味わう習慣となっておりました。
それからまた貴族のあいだでは目で味わう習慣になっておりました。目にしろ耳にしろ、日本の古典には味わわれるような文章がたいへんに多い。いわゆる美文と称されるものはその代表的なものであって、内容などはどうでもよく、ただ味わうために作られた、ちょうど見るための美しい日本料理のようなものであります。
われわれはなんでも栄養があるものしか取ろうとしない時代に生まれていますから、目でみた美しさというものをほとんど考えませんが、文章というものは味わっておいしく、しかも、栄養があるというものが、いちばんいい文章だということができましょう。
文章の味には水からウィスキーまで、さまざまなものがあります。また油揚げからビーフステーキまで、さまざまなものがあります。そのどの味が最上のものだということを私は言おうとするのではありません。しかし文章の味には、味わってわかりやすい味もあれば、十分に舌の訓練がないことには味わうことができない味もあります。
これから私はたくさんの例文をあげて、それぞれの文章の味を解説して行こうとするのですが、日本語のいかに堪能な西洋人でも、森鴎外や志賀直哉の文章がわかりにくいのは、それがきわめて微妙な水に似た味わいをもっているからにほかなりません。
この意見から言わせると、私のブログも見た目の美しさというよりは、栄養のある内容に偏りがちですね。濃縮されたサプリメントみたいな記事が並んでいるように思います。また、日々ネットを駆け巡る情報のほとんどが、サプリメントのような記事ばかりです。ごくごく簡単に言ってしまえば、ネットには説明文が氾濫しています。
何かを調べるために検索エンジンを使うことは、説明文に辿り着くことを意味します。料理を作る為にレシピサイトを見るなら、それもやっぱり手順書という名の説明文。あの有名なSNSだって、自己紹介という名の説明文なんじゃないかと。
そもそもネットは横組だったりしますから、説明文には適していても、長文を読むのには全然適していません。文章読本の抜粋部分も随所に改行を入れていますが、これは縦組では不要なものです。日本語は縦組で設計されたものです。横組の小説なんてとてもじゃないけど読みたくありませんよね。
ITを使った教育が声高に叫ばれていますが、これだと子供たちがどうしても横組に触れる機会が多くなりそうです。子供たちが横組に慣れてしまうことの弊害ってないのかなと文章読本を読みながらふと考えてしまいました。せめて、小学生の内に縦組の国語どっぷりと浸かってもらうのがいいんじゃないかと。