努力論を語れる幸せ
現代の日本人が未だ努力論を語れる環境にあることは幸いだと思う。現状打破のチャンスを自分が握っているという認識は未だ多数ということなのだから。努力を語る人はそれが出来る土台に感謝することから始めたらいいんじゃないかと思う。僕らの努力スタート地点は、概ね限りなく高いところから始まっている。
1.才能と努力
才能と努力の対比についての議論もよく聞く。これ比較してどうするのか不思議でならない。要は勝つか負けるかで考える人たちなんだなぁと思います。白黒つけたいのに話の内容はいつまでも灰色。
これから先も、この手の議論はもっと盛んになってくるんじゃないかな。デジタルネイティブの台頭によって、労せず功を得ようという考えが根っこの部分にあるような気がする。効率的に儲ける才能。炎上マーケティングという現象が起きる摩訶不思議な時代。時間をかけて自らを満たすんじゃなくて、効率的に他者から搾取することへと思考がシフトしているような気がしてならない。そう考えると、ちょっと怖い。
2.無駄な努力へのバッシング
その努力が無駄かどうかを判断出来る人っているのかな。バッシングする人は、上を見ずに下ばかりを見る人たちがやる行為だと思う。中には明らかに
不可能だと思える目標もあるかもしれない。奇異な努力の類もあるかもしれない。でも、好きにやらせたらいいと思う。無駄かどうかは、その時代が判断することだから。
3.努力と成功
努力するからには、目標設定がある。だから成功云々なんて話が出てくる。でも、成功は運と実力でしょ。実力を養うのが努力。でもこの実力の初期値は、才能が絡んでくる。だから、努力と成功はお隣同士じゃないし、同じ階に住んでいない。目標設定に対して、実力の部分がどうしても足りないから努力するだけの話。
4.努力と根性は違います。
根性論にすり替えて、努力を貶める意見を見かけるけど、そうじゃないでしょ。努力のしすぎて、燃え尽きたみたいなのも違和感を感じる。努力じゃなくて、「仕方」が悪かったんだと思います。例えば、生きるのに不可欠な水だって、大量に摂取すれば人体にとって猛毒になる。無理な根性で心を壊している人は確かに増えているけどね。
やっぱり努力は美徳
努力家は自己の内で勇気という特性を育て続けている。目標に到達出来ないかもしれない恐怖と戦いながら、努力を続けるという姿勢を私は素直に美しいと感じる。
健全な勇気は地道な努力続けた人間に宿ると思ってます。
だから、この得難い勇気を育てる努力は確かに美徳だと思う。