ノーベル文学賞作品として日本では知られていない珠玉の名作。ヘルマン・ヘッセの『ガラス玉演戯』

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ノーベル文学賞作品として日本ではあまり知られていない珠玉の名作。ヘルマン・ヘッセの『ガラス玉演戯』

これほど素晴らしい作品が国内で長年絶版になっていた理由がよくわからないです。現在はAmazonを経由して復刊ドットコムから入手可能。この作品の価値については、訳者のあとがきより引用させていただきます。

『ガラス玉演戯』は第二次世界大戦の最中、1934年にスイスで刊行。ヘッセの作品の中で最大の作品であるとともに、最後の長編であって、その時ヘッセはまだ六十六歳であったが、その後もはや息の長い作品を書かなかった。彼はこの一作に精神的、肉体的エネルギーを投入しきって、彼の文学の総決算をした観がある。その後の十九年間は、軽いエッセイや小品や詩や読者への手紙で余生を送ったという形になった。それだけ、これはヘッセの全てといってもよく、質量とみにヘッセの全文学中、最も高い地位を占め、最も重い比重を持っている。

この大作が出て3年目に、ヘッセがノーベル賞を受けたため、いわばノーベル文学賞作品として有名になったけれど、きわめて高度な哲学的な芸術的な作品であって、大衆作品ではない。ところが、意外なことに、ドイツ語の版だけで1970年までに52万部に達している。最もポピュラーになっている『車輪の下』や『デーミアン』よりずっと多く出ているのは、まったく驚くべきことである。ノーベル文学賞の作品というだけでは、持続的に多くの人に読まれるわけにいかないであろう。

これはらくに楽しんで読めるという作品ではなく、自分の頭でかみくだいて味わっていかなければならない性質の作品である。作者の提供するものを受け入れるという態度だけでなく、読者みずから取り組んで、最高級の精神的な遊びを共に遊ぶという態度でなければ、味わいこなすことができない。しかし、そうするならば、このうえなく多彩で豊かな学芸の深く高い境地を楽しむことができる。そしてそれは十二分に報われる楽しい境地である。

西ドイツは経済的に奇跡的な復興をとげたため、繁栄に酔いしれ、「阿呆の天国」になったなどと、あるジャーナリストから酷評されたが、その西ドイツで50万人もの人がこの極度に高尚な高価な本を買っているという事実は、人間だけが物質だけに生きるものではないことを、みずから苦しんで精神の問題と取り組もうとする人の少なくないことを実証している。また昨今にわかに関心を持たれ出した遊びの意義を考える人の多いことを示している。

前置きが少し長くなりましたが、この不思議なタイトルの『ガラス玉演戯』ですが、ヘッセが見習い機械工だった頃に町工場の主人が、ガラス玉と針金で組み立てた楽器でさまざまの着想を構成したことに端を発しているようです。これが物語の中ではさらに音楽的、数学的、宗教的に高められ、一つの学問として成立した未来、もしくは超時空的な時間軸の中でのお話です。哲学的SF作品といってもいいかもしれません。

今でも阿呆の天国

日本もかつてバブルを経験した国ですから、この阿呆の天国という表現にドキリとさせられてしまいます。しかし、バブルという時代が終わった今でも、私たちの世界はまだ阿呆の天国が継続しているように思われてなりません。

ウェブの世界がいい例です。ソーシャルの台頭と共に、言葉はみじん切りにされてしまいました。子供たちは昔以上に、小さな窓からこっそりゴシップの世界を覗き込む機会が激増しているように思います。私たちは細切れにされた言葉に復讐される日が来るかもしれません。

作品中でこんなやり取りが出てきます。芸術と精神の世界に住んでいるガラス玉演戯名人の主人公のクネヒトと俗世に下った旧友であるプリニオのやり取りです。

第9章「対話」

「カスターリエン人(ガラス玉演戯者たちの住む地域)の思いあがりと虚飾をどんなに批判したかを、君はおぼえているね。うぬぼれた、文弱に流れたこの相続階級は、階級的偏見と英才の慢心にとらわれているのだ。ところが、俗世の人間は、粗末な作法、乏しい教養、無骨な騒々しいユーモア、実際的な利己的な目的だけをおっているサル知恵を、同様に誇りとしていた」

”実際的な利己的な目標だけを追っているサル知恵”という表現がなんとも痛烈です。私たちが、ライッフハックや自己啓発本と言われるものになんとなく軽蔑の念を引き起こすのは、間違いなくこの点ではないでしょうか。もちろん、このブログにもそういった要素が紛れ込んでいることは否定しません。

稀釈された宗教哲学が、精神論や処世術として出回り、それが自分の為ではなく自分の「利益」の為になると教え説く浅ましさ。少なくとも自己啓発本を読みふけるよりは良書と呼ばれる文学を読んだ方がいいと私が考えるのはこの点にあります。

「遊戯」について

『ガラス玉演戯』がどんなものかを要約するのは具体的描写が少ないので容易ではありません。ただ、この遊戯という言葉についてはドイツの詩人シラーの『人間の美的教育についての書簡』で語られる遊戯衝動から着想を得ているものと思われます。

あらゆる制約から解き放たれた状態、即ち「人は真剣に遊ぶときのみ、全き意味において人間的である」。

詳しくは、美学芸術論集 (冨山房百科文庫)に記されていますので詳細な説明は割愛させていただきます。興味のある方は是非読んでみてください。

「三つの履歴書」が珠玉のクライマックス

具体的な描写というのは最小限にとどめられています。ほとんどが観念のやり取りで構成されているので、これも得意不得意があるでしょう。終わり方があっけないという感想をよく見掛けますが、私は全くそう思いません。

ガラス玉演戯という未来の学問の萌芽が実は現実として存在するんだよというメッセージをヘルマン・ヘッセが読み手に託した終わり方ではないかと思っています。これは巻末の主人公の前世の思わせる「三つの履歴書」という章がありますので、そこまでしっかり読んでもらうと理解いただけるのではと思っています。

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“おやゆび文鳥”

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