池上彰から学ぶ大人の教養-そうだったのか!現代史は漫画も真っ青のトンデモ展開の連続!!

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池上彰から学ぶ大人の教養-そうだったのか!現代史は漫画も真っ青のトンデモ展開の連続!!

政治、宗教、現代史などは読書感想文で最も難しいジャンルだと思います。

立ち位置によっても解釈が異なるし、史実というのはいつも複雑怪奇に入り組んでいます。

現代史と聞くと、ちょっと取っ付きにくいというか、難しい話が始まるんだろうなと身構えてしまう自分がいます。

そういう人には是非とも手にとって欲しい1冊であることは間違いありません。非常に読みやすく、要点が簡潔に整理されています。

歴史は一つの側面だけ語られるものでは無いということを念頭に置きながら読み進めてください。

興味が出たところはご自身で資料を集めてみて、検証されるのがいいかと思います。

歴史を知るということは、傍観者になるということです。当事者でないが故に見えてくるものが沢山あります。

肥大化した狂気の現代史

暴力と屁理屈と猜疑心と狂信がかつてこれほど世界に蔓延したことはないでしょう。

思想やテクノロジーがぶくぶくに膨れ上がったのが現代史です。

意見をぶつけてみるということが苦手な国民性というのも、無責任な何かを肥大化させるのでは?と危惧してしまいます。

はじめに

池上さんは、現代史を知らない大学生や社会人のあり方に警鐘を鳴らしています。

誤解を恐れずに言えば、私たちのルーツはもはや民族の壁を飛び越えて、現代史知ることにあるような気がするのです。

私自身が調べてたものを交えながら、いくつかピックアップして紹介していきます。

18歳から選挙権を持てるようになった日本。

高校生は歴史の時系列を逆に、つまり現代史から学んだ方がいいんじゃないかと強く感じました。

冷戦が終わって起きた「湾岸戦争」

この戦争でイラクが悪者だと考えてしまうのは早計です。イラクの軍事力はもともとイランのイスラム教原理主義の台頭を懸念したアメリカ及び西側諸国が育てたものだと本書では語られています。

1990年8月2日、イラクがクウェートに侵攻したことに始まる。1990年8月2日にイラクのクウェート侵攻をきっかけに、国際連合が多国籍軍の派遣(中心はアメリカ軍)を決定。1991年1月17日にイラクを空爆して始まった戦争。

ハイテク兵器が敵基地をピンポイントに攻撃する映像がテレビに映し出されたことから、別名ニンテンドーウォーとも呼ばれた。これは当時テレビゲームの代名詞がニンテンドーだった為です。

冷戦が始まった

冷戦とは、第二次世界大戦後の世界を二分したアメリカの資本主義・自由主義陣営と、ソ連の共産主義・社会主義陣営との対立構造を形容した言葉。この対立構造は世界を二分。

「核による平和」という奇妙な緊張状態が永らく続きました。どちらの陣営にも属さない国を第三世界と呼ばれました。

日本はもちろん、アメリカ陣営。日本は、憲法9条と日米安保のもとで、「アジアの奇跡」とよばれた日本の驚異的な高度経済成長を遂げます。

ドイツが東西に分割された

第二次世界大戦後にドイツは東西に分割されました。この境界にベルリンの壁があったわけではありません。

勘違いされている方もいますが、ドイツを東西に分割したのではなくて、ベルリン市内を東西に分割したのがベルリンの壁です。

第二次世界対戦でヨーロッパ大陸の広大な領土を侵略・征服したドイツは、結局、東からソ連軍、西からはアメリカ・イギリス連合軍に攻め込まれました。

ヒットラー自殺後、ドイツの正当な政府が存在しないまま、1945年5月7日にアメリカ、イギリスとの戦場で降伏。5月8日にソ連との戦場では無条件降伏。

この結果、ドイツ東部はソ連に、西部はアメリカ、イギリス、フランスによって占領されました。これがやがてドイツの分裂国家を誕生の原因となります。

日本は同年、7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成るポツダム宣言を受諾。第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)は終結。

ベルリンの壁とはただのコンクリートの壁ではありませんでした。

  • 1.高さ3.4mのコンクリートの壁
  • 2.杭が設置された地面
  • 3.高さ2mの金網
  • 4.亡命者を探知するケーブル
  • 5.鉄条網
  • 6.バンカー
  • 7.番犬
  • 8.砂地
  • 9.幅3.5mの溝
  • 10.街頭
  • 11.パトロール用の舗装道路
  • 12.音や光を探知するフェンス
  • 13.開口部分
  • 14.西側のコンクリートの壁

自由化デモと平和運動の広がりによって、18年後にこのベルリンの壁はようやく打ち壊されます。

スターリン批判

スターリンは本名ではありません。

スターリンという姓は「鋼鉄の人」の意味。彼の本名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリといい、1979年にグルジアの靴色職人の子供として生まれました。

成績優秀でしたが、共産主義活動を熱心に行うようになり放校。その後、テロ、暗殺、銀行強盗、売春宿の経営など悪事の限りを尽くした男。

1953年3月5日、スターリンは脳内出血ため、亡くなっています。

1924~1953年、ソ連の独裁的権力を握り、反対派を徹底的に粛清。犠牲になった数は推定700万人ともいわれています。これは現在の埼玉県の全人口に匹敵する数です。

スターリンが死んでから3年後の1956年にフルシチョフ第一書記がスターリン批判を展開。この告発によって、てスターリンは偉大な国家指導者という評価から、恐るべき独裁者という評価へ変化しました。

ある政治家が独裁者であれば、次の民主的な選挙はやってきません。これを「民主主義のパラドックス」と呼ぶそうです。

一党独裁の政権下で独裁者が誕生した結果、ソ連、中国、北朝鮮がどうなったかはみなさんもご存知だと思います。

中国と台湾はなぜ対立する?

親日と言われる台湾ですが、そのルーツがどこにあったのかを知っておく必要があります。

そもそも、どこどこの国は親日国だなどと迂闊に口に出すべきものでもないような気がします。

台湾の人口は2200万人。東京都と神奈川県の人口を合わせたくらいです。広さは九州ほど。

1894年 日清戦争で清(当時の中国)に勝利した日本は、、1895の下関条約で台湾を清から奪い取ります。台湾の支配に抵抗する住民を軍隊で鎮圧。

一万人を超える住民が亡くなりました。その後、日本は徹底した日本人化教育を行いました。神社を建て、日本語を義務付け、警察力による強権政治を実施。

一方で産業発展の基礎も築きます。道路、鉄道、港を整備。義務教育を導入し、識字率は飛躍的に伸びました。

太平洋戦争で日本が負けると、台湾は中華民国に返還。ここで大陸からやってきた国民党の体たらくぶりに、台湾人は驚きます。「走了狗来了豚(犬が去って、豚がきた)」

台湾が親日なのは、中国より日本の植民地時代の方がまだマシだったという感覚なんですね。

1949年、国民党との内戦に勝利した中国共産党は、中華人民共和国の成立を宣言。国民党の支配地域は台湾のみとなりました。

1950年に朝鮮戦争が勃発。アメリカが第七艦隊を台湾海峡に派遣し、中国共産党に台湾を攻撃しないように牽制。さらに、北朝鮮に肩入れする中国に対して、アメリカは経済や軍事援助を始めました。

日本も含め国連でも、台湾は中華民国の一地域という立場です。
独立を画策する台湾と、これを阻みたい中国政府の駆け引きは今も続いています。

同じ民族が殺し合った―朝鮮戦争

朝鮮半島は今でも、東西に走る北緯38度線を基準として南北に分かれています。

1945年に太平洋戦争が終わるまで、朝鮮半島は日本が支配。韓国併合を実施。朝鮮半島の人々は、日本語を使うことを強制され、氏名も日本風に変えさせられました。この韓国併合時代に日本が近代化の発展に寄与したとの見方もあります。

日本が太平洋戦争に負けると、北からソ連軍が南下。アメリカも南から軍隊を上陸させ、北緯38度線を境にして、南北をそれぞれの軍隊が分割占領することが決定。

ソ連はソ連式の国作りを進めます。ここで担ぎ出されたのが、太平洋戦争中、ソ連軍の大尉だった金日成(キムイルソン)でした。南では、選挙で選ばれた李承晩(イ・スンマン)が選出されます。

こうして、南北に二つの国が成立した2年後の1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発。韓国ではこれを6・25事件と呼びます。戦線が朝鮮半島の北端から南端まで広く移動したことから「アコーディオン戦争」とも呼ばれます。

結局、一進一退の中、両陣営は再び38度線付近で膠着状態に。南陣営の国連軍司令官のマッカーサーは北陣営を支援する中国に対して、原爆の使用許可を本国に求めます。トルーマン大統領はこの訴えを却下、マッカーサーを解任。

1951年に北陣営のソ連軍の呼びかけで休戦会談が始まります。1953年に休戦協定が成立しました。
アメリカにとっては、初めて経験する「勝てなかった戦争」でした。

この戦争で犠牲になった人の数は270万人〜360万人と推定されています。

朝鮮戦争で必要な物資をアメリカは日本に大量に注文しました。3年間での発注金額は、当時に日本円にして8640億円。

日本はこの時期に、敗戦によって立ち遅れていた技術を習得し、アメリカ式の大量生産方式を学びます。産業立国となるための重要なノウハウを作り上げ、特需により雇用を確保し、多くの外貨を獲得することも出来ました。

隣国の戦争によって経済が潤ったのです。これを朝鮮特需と言います。ただ、この朝鮮特需に対して懐疑的な見方もありますので、ご興味がある方はよく調べてみてください。

アメリカ軍が朝鮮戦争開始とともに、全兵力を朝鮮戦争に派遣したため、日本はアメリカのGHQの指示のもと、警察と軍隊の中間的な性格を持った警察予備隊(後の自衛隊)を創設。自衛隊もそもそもは朝鮮戦争をきっかけに組織されたものだったんですね。

イスラエルが生まれ、戦争が始まった

中東という呼び方は、イギリス側から見た見方なのです。

だから、日本は極東。イギリスから見たら、中くらいの距離にある東の地域。だから中東。

これは池上さんが出した別の本で世界を変えた10冊にも出てきた内容です。

中東問題の発端は、第二次世界対戦が終わった3年後の1948年5月に遡ります。アラブ人が住んでいる土地にユダヤ人たちが国を作りました。

それがイスラエル(神に勝つ者の意味:旧約聖書より)です。その後、イスラエルは国連が採択したユダヤ人の範囲を超えて、パレスチナ全域を占領。これが、今でも大きな問題になっています。

イスラエルがこれほど強気に出ていることが可能なのも、ナチスのユダヤ人弾圧が歴史の背景としてあるからではないかと池上さんは推察されています。そして、アンネの日記がユダヤ人弾圧の歴史の代弁者として今でもその役割を担わされているという見方です。

世界は核戦争の縁に立った―キューバ危機

1962年10月に、世界は核戦争の寸前まで行ったことをこ存じでしょうか。俗に言うキューバ危機です。これはアメリカの偵察機がキューバ上空を飛行し、ミサイル基地を撮影。

この基地に核兵器搭載可能なソ連の中距離ミサイルが運び込まれていることを確認し大騒ぎに。

当時はソ連の領土からアメリカに届くだけのミサイルというのはまだ開発されていませんでした。ただしキューバからであれば、アメリカは核ミサイルの射程圏内に入るのです。

当時の大統領だったケネディは、軍事行動には出ず、キューバへ輸送途中の船の積荷を全て検査する行動にでます。

実質的には準軍事行動ですが、ソ連を必要以上に刺激することを回避したのです。

結局、キューバ危機がどのように決着したかは本書または資料を調べて確かめてみてください。

「文化大革命」という狂気の権力闘争

中国のニュース映像に必ず登場するのが、北京の天安門広場。ここに飾られているのが、毛沢東の巨大な肖像画です。中華人民共和国建国の父という位置付けで飾られています。

名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治・社会・思想・文化の改革運動でした。しかし実際は、政権中枢から孤立しつつあった毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、「紅衛兵」と呼ばれる若者を中心に民衆を扇動して利用した、中国共産党の権力闘争でしかなかった。

「あらゆる搾取階級の古い思想、古い文化、古い風俗、古い習慣を大いに打ち破れ」との号令で、組織的暴力や過酷な迫害が各地で発生。文革時の死者40万人、被害者1億人と推計されています。また、中国の貴重な文化財も甚大な被害を受けました。

アジアの泥沼―ベトナム戦争

ベトナム戦争というと、日本は関係なかったと考える人も多いようですが、これは正しくありません。

1940年、ベトナムを植民地支配していたフランスは第二次世界対戦でドイツに破れます。

これに乗じて、日本はボトナムへ進駐。日本軍はベトナムの農家に軍事用の麻袋を作るように命令。

これによって米がほとんど収穫出来なかったベトナムの人々は、飢饉によって200万人が死亡したと発表しています。

太平洋戦争終結後、敗戦した日本軍はベトナムから引き上げます。再び、フランスがベトナム支配を画策。1946年12月、独立を求めるベトナム独立同盟会(ホー・チ・ミン)とフランス軍が衝突。これが、発端でベトナム戦争へと繋がっていきます。

ベトナム戦争は、アメリカ合衆国側(資本主義陣営/フランス)と、ソビエト社会主義共和国連邦(共産主義陣営/ベトナム独立同盟会)との間に、第二次世界大戦後に生じた対立(いわゆる冷戦)を背景とした代理戦争と言われています。

この時、アメリカが大量に撒いた除草剤、枯れ葉剤にはダイオキシンが含まれており、高い発がん性や、異常出産が認められ、環境や子孫への犯罪となったとも言えます。

また、アメリカ国内の麻薬汚染が深刻になったのもベトナム戦争から帰還した若者だったと言われています。

ポル・ポトという悪夢

ポル・ポトは、カンボジアの政権を握ってから、わずか4年間で人口が3分の一に減少させた独裁者です。

300万人以上を惨殺。ポルポトが提唱した原始共産制の狂気は凄まじいものでした。貨幣の廃止、宗教の禁止、国民は共同農場に所属させられました。仏教国として有名なカンボジアですが、宗教も禁止され寺院は破壊されました。

もっとも有名なのが「知識人敵視政策」です。中学校を出ているだけで知識人の対象とされ、処刑されました。また、教師、海外から帰国した留学生たちも、祖国のために力を貸してほしいという呼びかけをして、実際には全員処刑されるという異常な事態でした。

これによって、カンボジア国内には読み書きを出来る国民がほとんどいなくなったと言われています。この考えの基底となっていたのが、「肉体労働こそがすべての基本」だという原始共産制の思想です。しかし、ポルポト自身はフランスに留学したこともある知識人でした。

1978年12月25日、カンボジア・ベトナム戦争の幕開け。
ベトナム軍の本格的な侵攻によって、3年8ヶ月におよびポルポト政権は終わりを迎えます。

天安門広場が血に染まった

天安門事件とは、中華人民共和国北京市の天安門広場で起こった事件ですが、実は一つだけではありません。ただ、日本人が考える天安門事件とは、一般的に「六四天安門事件(1989年6月4日)」だと思います。中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民に対し、中国人民解放軍が武力弾圧し、多数の死傷者を出した事件です。正確な犠牲者数は今なお明らかにされていません。

中国の軍隊は「人民解放軍」という名前です。これは中国共産党のための軍隊であって、国家の軍隊ではありません。つまり、人民解放軍は政府の指示ではなく、共産党の指示・命令だけで軍事行動が出来ます。縛りがないのですね。

この出来事は、政治改革に積極的だった胡耀邦元総書記の死がきっかけでした。政治改革を求める学生を中心に10万人の人々が天安門広場に集まりました。

鄧小平の決定により5月19日に北京市に厳戒令が布告され、武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちに対し、涙を流しながらデモの平和的解散を促しましたが、デモ隊は解散せず。

1989年6月4日未明、中国人民解放軍は軍隊と戦車で北京の通りに移動して無差別に実弾を発射し、武力弾圧を決行した事件です。

天安門広場というのは中国民衆の民主化への挑戦を現す象徴的場所と言えるかもしれません。そこには、今でも毛沢東の巨大な肖像画が飾られているところを見ると、民主化への道のりは遠いといえそうです。

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